美術の専門家でもない僕は
技法や細部のストーリーのことは知らないが、
2016年5月上野で体験したカラヴァッジョの衝撃は大きい。
本来、美しい作品は生きる活力になるべきだろう。
だけど僕がこの時に感じ、そして、
その後彼を思い起こすたびに去来するのは、
「運命づけられた死の予感」だった。
今でも、まず浮かぶのはこの予感だ。
でも本当は違うんだと思う。
彼が伝えたいことも、僕が受け取りたいことも違う。
僕は僕に都合よく解釈してきただけだ。
「運命づけられた死の予感」
カラバッジョを思うとき、
べっとり重い濃厚なそれが、渦のように旋回する。
狭い脳内を、まるで宇宙を飛び回るように。
でも、今思えば、それはあまりに都合の良い解釈だと思う。
渦の切れ間に、とてもかすかだけど、
しがみつくように纏わりついているもの。
とても切実に、渦から振り落とされないように必死に食らいつくもの。
「生への憧憬」
彼の絵画、そして生涯から「死の予感」を見出すのは、
生者の奢りであって、僕が本当の意味で死に向かっていないからだ。
僕の「死の予感」は欺瞞に過ぎない。
命を絞り出すように描き出された名作の数々。
それは「死」ではなく、「生」に向けられたものだ。
絵画に宿る魂の叫び、「生きたい」という絞り出すような叫び。
悶え苦しんだであろう彼の生涯だったが、
歪にゆがんだ真珠のように不恰好な姿であっても、
彼は生きようと、何かをつかもうともがきつづけた。
僕は今でも「死の予感」に支配されそうになる。
でも、それは彼が望んだことでも、
ましてや僕自身が望むものでもない。
カラバッジョは綺麗な真珠のような生き方に憧れただろうか?
自分はそうなれなくても、そういう存在を信じようと絵を描いたのだろうか?
決して手に入らないであろう、至高の美。
後世、カラバッジョはバロックの始祖と言われるが、
それは称賛なのか、皮肉なのか。
今となってはどっちでもいいことだろう。
受け止め方次第だから。
歪んでいようが、そうでなかろうが、
人に何かを伝えるのも、誰かが何かを感じるのも、
生きているからだ。
僕はカラバッジョが好きだ。
だからこそ、僕は死の予感に甘えず、
今ある生を大切にしていこう。
そういう人で僕はありたい。