私は、1ヶ月ほど前に祖父を亡くしました。

急性の心肺停止で脳死のような状態に陥っており、そのような状態が何ヶ月か続きました。その時、私はカナダへ留学中でしたので、私はなかなか日本に帰ることが出来ませんでした。そして一時帰国することを決断。私が飛行機に乗っている時、祖父は他界しました。

 

そして、祖父が他界後、私はお葬式に出席しました。それは私の人生の中で最初に身内、自分の周りにいる人を亡くしたときでした。お葬式も始めての出席で、あのなんとも言い難い雰囲気、人生で初めてみる父の涙は忘れることが出来ません。

 

そんなお葬式の前夜、私は母からとても残酷で信じたくない現実を知らされました。

 

 

私の母方の祖母が肺の末期ガンだということでした。

 

私は号泣しました。

 

なぜこの留学というタイミングで、こんな悲しいことばかり起きるのか、そして、自分がこのようなことが起きる可能性を考えずに留学を安易な気持ちで決断してしまってのか、とても悔しくて仕方がありませんでした。あと1週間で叔母に何をしてあげれるのか、どうすれば、祖母にも自分自身にも納得のいく1週間を過ごせるのか必死で考え、苦しみもがきました。私はできる限り祖母に会いに行き、いろんなことを話して、カナダに帰ってからも、話すことができるようにアプリを祖母の携帯に入れたりとできる限りことをしよう。そう思いました。今、自分が出来る、できる限りことを全力でやろう。それ以外にないと思いました。

今、周りの人を見ていても、自分に限界を決めて、できるのにやらない人や、出来ないのに出来ると思ってやらない人が多いと感じました。やりたいことが出来る環境にある人たちが、本気で取り組まない。もし、障がいを持った方や、長く生きることが出来ない人が、やりたいことが出来る環境に入ることができれば、その方々は本気で人生をかけて、やりたいことを本気ですると思う。私たちはもっと責任感を持って、出来ることを自分が今できるだけのことをするべきだと私は思う。

 

生きる価値というものは、考えれば考えるほど、意味をなさない。しかし、生まれてきてしまって、いずれ死ぬのなら、楽しく時間を過ごしたい。ただ、遊んで楽しいという次元の楽しさではなく、もっと上にあるものを人は経験したい、だから、多くの人は努力をする。本気になれば、人は1分で変われる。人生というものはいつ終わるか分からない。今自分が、できる最大限の努力が出来ているのか。毎日が自分史上、最高のそして最強の自分になれているか。

 

 

そして、そんなことを考えているうちに、祖父の通夜は終わり、火葬に向かい、叔父が叔父ではない姿で出てきたことを忘れることは出来ません。そして、姉が私に、こう呟きました。最後はあんな小さい壺の中に収まるねんなと。その言葉を聞いて、いろんなことを考えました。母のお腹から生まれ、最後はつぼに収まる。最初は泣くことで始まり、最後は笑って散りたい。どんな生き方をしてもちっさなつぼに収まるのだから、人生はもともと面白くないもの。けれど、それを楽しくして行くのが生きるということだと思った1週間を過ごした。