にせ幹二の重箱の隅つついたトン子のハンセン病の仕事岡山の牛窓の近くに長島愛生園というライ専門の国立病院に死んだ親父は勤めたかった。理由は当時危険手当で、月3万円くらいは違うわけ。当然、ボーナスも変わるというわけだ。何のことかと思ったら、その辺をヒントにして作った仕事らしい。いい加減にしてほしいし、そこまで無理して働くなら、俺のことも認めるべきで、少しは俺にも愛を与えてほしいものだ。うんざりしますね。