日本史における日記 [編集 ]

近代以前の日本の史料の代表的なものとして挙げられるのが、古文書 と日記を中心とする記録類である。

日本において記録に残る最古の個人の日記は、遣唐使 として に渡った伊吉博徳 によるもの(『日本書紀 』斉明天皇紀)とされるが、航海日誌、もしくは遣唐使としての職務の報告書の材料として作成された可能性が強く、個人の日記とは見なさない方がよいと思われる。現象的には、六国史 の 編纂が絶えてしまった10世紀以後に、天皇や貴族の日記が出現し、「発生」したよう




に見えるが、もう少し前の時代にさかのぼって想定すべきであろう。朝廷 の政務や行事の儀式化が進行し、それらを殿上日記や外記日記などの公日記で記録する一方、それらを上卿などの立場で運営・指導する廷臣や皇族たちの間で、 次第に習慣化していったものと考えられ、初期のものとして、例えば、宇多醍醐村上 3代の「三代御記 」などの天皇の日記や重明親王 の『吏部王記 』などの皇族の日記、藤原忠平 の『貞信公記 』、藤原実頼 の『清慎公記 』、藤原師輔 の『九暦 』(九条殿御記)など上級貴族の日記が知られている。平安中期以降は、摂関家小野宮流勧修寺流 藤原氏、高棟 流平氏などが代々多くの日記を残しており、本来儀式のためのメモであった実用品としての日記が、12世紀に入ると「家」の日記化(家記 の形成)し、さらに別の機能が付加され、中・下級官人も含む多くの貴族たちによって記されることになったと考えられる。中・下級官人の家柄で代々当主の家記を所持する家を特に「日記の家 」と称した(『今鏡 』など。また、実際には天皇家や摂関家にも「日記の家」としての要素があった)。


今日伝わる公家の日記の書名の多くは没後に付けられたものであり、執筆者自身は「私記」(藤原実頼清慎公記 』・藤原資房春記 』など)や「暦記」(藤原実資小右記 』など、具注暦 に日記を記したことによる)などと呼ぶ例が多かった。自ら命名した日記の名称が後世に伝わるのは、後奈良天皇天聴集 』や中院通秀塵芥記 』など少数である。多くは執筆者の の偏旁を採って重ねたり


、諡号・官職・姓氏・居所やこれらを合わせたものが、後世の人によって命名されたのである。従って、1つの日記に複数の名称が用いられる事例も多く、藤原実資の日記は彼が「“小野宮家”の“右府(右大臣 )”」であったということから、『小右記』・『野府記』という名称が並存し、



更に祖父・実頼の『清慎公記』の別称『水心記』より、『続水心記』とも呼ばれている。また、平信範 の日記は、彼の諱の偏から採った『人車記』(信→人・範→車)と兵部卿の官職と諱の一字を組み合わせた『兵範記 』、更に「洞院(地区名)に住む平氏」という意味の『平洞記』という呼称が併称された。



当時、紙は貴重であったために、日記は具注暦などの暦の余白や裏側に記載したり、反故になった紙の裏側を用いられた例(紙背文書 )が多い。また、これを上手く利用したものとして、伏見宮貞成親王 の『看聞日記 』のように自らの和歌・連歌の書付の裏に日記を記して歌と日記の両方の保存を図ろうとした例や万里小路時房 の『建内記 』のように出来事に関連して遣り取りされた手紙や文書の裏側にその出来事に関する日記を綴った例もある。また、日記の著者が後日になって改めて文書を整理し


て清書した例(『後二条師通記 』・ 『兵範記』など)もある。なお、子孫が日記を書写・清書する例もあったが、その場合重要とは思われない部分が省略される場合はあるものの、原文に忠実に書 写されることが多く、写本間の異同は大きくはない。また、著者あるいは子孫が日記の内容を検索するために目録を作成したり、分野ごとに分けた「部類」と呼 ばれる別本を作成することもある。なお、藤原実頼の『清慎公記』の「部類」を作成する際に孫の藤原公任 が 原本を切り貼りしてしまったために全巻が紙屑と化してしまうという出来事があり、従兄弟の藤原実資が激怒したという逸話がある。当時、




「部類」作成時には 一旦写本を作成して、その写本を切り貼りするのが常識とされ、公任がそれに従わず原本を破損させたために実資を激怒させたのであるが、実際には日記を裁断 されて作られたとみられる掛軸や帖(「古筆切 」)も存在しており、その過程で散逸した日記も少なくなかったとされている。





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