チャーリー・カーク氏暗殺事件の後、私も追憶のように彼の過去の討論番組を見返していた。
ここで彼に対する政治的な評価を述べるつもりはないが、私が語りたいのは、オナ禁的視点から気づいたことである。
カーク氏の眼差し、立ち居振る舞い、そして話し方。そこにはまさに「禁欲者のそれだ」と強烈に感じるものがあった。
彼は結婚して子供もいるので完全断射オナ禁者ではないにしろ、キリスト教的純潔を守っているオーラが見て取れるのである。
カーク氏の立場と活動
カーク氏は、若者向け保守系団体を運営する有名な論客だったが、全米の大学を巡り、左派リベラルの学生たちと討論を繰り広げ、抑圧されがちな保守学生たちに希望を与えた。
彼の語る「保守」は、日本的な保守主義とは少し違い、むしろ米国のキリスト教福音派の信仰に根ざした色合いが強かったが、そこで説かれていたのは、伝統的な家族の価値観の回復、そして「古典的なアメリカ」に基づくキリスト教的な価値観だった。
リベラル化した大学の現実
私自身、かつてアメリカの大学に通っていた経験があるが、そこでは左翼リベラル思想が強く、キャンパスによっては過激派の温床のようにすら感じられることがあった。
穏健な右派や左派には健全な議論を交わせる人々も多いが、問題は極端な派閥の存在である。
近年のアメリカでは、主要都市の大学ほど過激なリベラル思想に傾き、そこからさまざまな弊害が生まれているのも事実だろう。
印象的だったのは「眼の輝き」
私が最も強く印象を受けたのは、カーク氏の眼の輝きと自制心である。
彼は常にエネルギッシュで頭脳明晰で、相手がどんなに挑発的でも感情を乱さず、冷静にしかし力強く論理を展開していたが、そこには「オナ禁者のオーラ」が漂っていた。
それに比べて、討論相手のリベラル学生たちの多くは、弱々しく退廃的で、しかしプライドだけは異様に高く、聞き分けのない子供のようで、ナルシスト的な若者が多いように見えた。
男子学生たちの眼には、典型的な「オナ猿」のような虚ろで怪しい光が宿っていたのも印象的だった。
純潔をめぐる議論
ある討論で、女子大生が「不特定多数の男性と関係を持つのは自由」とフリーセックスを正当化し、キリスト教的な純潔を否定する議論を挑んだことがあった。
そのときカーク氏は「セックスとはスピリチュアルなものであり、魂と魂のエネルギー交換である」と語った。
この言葉には、単なる保守的価値観ではない、もっと深い人間観が込められているとも感じられた。
退廃の文化と失われた精
ハリウッド映画や音楽業界、テレビにはセックスシンボルや性的暗示があふれている。
リベラル思想の中にはフリーセックスを推奨する傾向は以前からあり、若者たちはかつてないほど、ポルノに慣れきって育った世代だ。
その結果、多くの学生が「精の欠片もない顔つきと眼差し」をしているといった有様になった。
メディアによって性エネルギーを失わされた若者は、簡単に過激な思想や行動に染まり、まるで何かに取り憑かれたかのような印象を与える。
キリスト教の純潔とオナ禁
私はキリスト教徒ではないが、しかし、彼らが説く「純潔」──配偶者以外と性行為を持たず、精神的な節制を保つという教え──には深い意味があると、長期オナ禁を経験した今だからこそ理解できるようになった。
かつて私自身が大学生だった頃、宗教なんて気持ち悪いものだと思い、フリーセックスや風俗を当たり前のように肯定していた。
だが今振り返れば、エネルギー観点からみれば、それは自分を見事に消耗させるだけの浅い考え方だったのだ。
性をめぐる文化闘争
アメリカの大学が1960年代からリベラル思想に染まってきた流れは、今や「共産革命の延長」にも見える。
ポルノ文化や過度の自慰習慣は若者のエネルギーを奪い、思考力を鈍らせ、結果的に支配層による愚民化を助長している。
カーク氏が説いた「結婚して家庭を築き、節制を持って生きよ」というメッセージは、若者を破壊へ導くフリーセックスやポルノ文化への真っ向からの反抗である。
それはすなわち、性を浪費させて大衆を骨抜きにしようとするでっちあげ文化への抵抗だといえるだろう。
私はオナ禁を通じて、性エネルギーの大切さを身をもって学びつつある。
そして気づいたのは、古今東西の宗教が「性を乱用するな」と説いてきた理由には、共通する深い真理があるということだ。
チャーリー・カーク氏の眼に宿っていた「精を保つ者の輝きと威厳」。
それは単なる政治的立場を超え、人間の本質に関わるエネルギーのあり方を体現していたのだと思う。