はじめに

オナ禁を始めて1000日が経過しました。 もはや当たり前な日常と化してしまっているので、特別な達成感はないです。 継続自体を凄いとも思わないです。長期オナ禁なんて客観的に見れば、ただの自己満足でもあります。ただ、男として、人としての質は、やる前より格段に向上したなとは感じることができています。凄まじい恩恵をくれたこの習慣、そしてインスピレーションをくれた、ネットで出会った先人の方々に、深い感謝をしたいと思います。

 

振り返れば、原点は「どうしようもない自分」という思い込みから来る強い自己嫌悪でした。自由きままに独身を謳歌したまま未婚のままで来ましたが、定期的に恋愛することや彼女と同棲してた頃もありました。しかし、30代後半あたりから、低い自己肯定感はどんどん募って行きました。それらを埋めるように風俗に溺れた時期もあり、抜くことが当たり前の毎日を延々と過ごしていました。しかし、50歳を目前にした時に直感したのでした。「このままでは、惨めに老化していくだけだわ」と。

転機と葛藤:絶望の中で知った「不思議な解放感」

転機と葛藤:他人との比較という罠


44歳の頃、網膜剥離になり、手術と治療を経験しましたが、回復期間中は、網膜剝離の治療特性上、1日の大半をうつぶせになって絶対安静で下を向いて寝ていないといけないのですが、結果強制的にオナ禁状態となりました。この時、身をもって知ったことがあります。 よく「上を向いて歩こう」みたいな激励する言葉がありますが、あれは単なる精神論ではありませんでした。物理的にずっと下を向き続けていると、人間の心は驚くほど内省的になり、どんどん暗い方へと沈み込んでいくのです。

 

視界に入るのは床だけ。暗闇の中で「このまま失明するかも」という言いようのない不安と孤独。その中で私は、病院で寝たきりの生活を送る方々が、どれほど過酷で孤独な戦いをしているのかを、初めてリアルに想像することができました。皮肉なことに、その「どん底」の状態こそが、私を長年の呪縛から解き放ってくれました。 生死や健康の危機に直面し、他者の痛みにまで思いを馳せるような極限状態において、エロなどの入り込む隙間はどこにもありませんでした。

 

見舞いに来た友人に、冗談で、今はオナニーもできない状態だよと伝えたら、その友人がオナ禁をやっていると聞いて、興味を持ってなんとなく試してみることにしました。当時はオナ禁に対する知識も浅く、単なる実験で終わってしまいましたが、7か月間オナ禁を試してみることができました。この経験が今回の再度挑戦の伏線となりました。

 

オナ禁を再挑戦の過程で感じたのは、「他人との比較」と疎外感でした。 私の周りには、オナニーを公言しながらも社交的で、経済的にも成功し、女性にもモテる友人がいました。そんな彼と他の友人達から、オナ禁なんてやっても意味ないし馬鹿げているだけとたしなめられて、周りから疎外感を益々感じるようになりました。「他人はそんなことをしなくても幸せそうなのに、なぜ自分はこんな『奥の手の荒治療』みたいなことをしなきゃいけないんだ?」 「自分は、普通の人としての機能が壊れてしまっているから、こんな極端な道を選んでいるのか?」と、疑問と惨めさを感じる期間がありました。

気づき:自分に必要な「浄化レベル」を知る

しかし、暗闇の中でようやく気づいたのです。 他人と私は、人生で積み上げてきた業(カルマ)も、培ってきた背景も全く違う。 「必要な浄化のレベル」は、人それぞれでいいのだ、と。

 

必要な浄化のレベルは人それぞれ。他人と比べること自体が無意味なのだと。オナ禁は単なる我慢大会ではなく、潜在意識の書き換えであり、深い浄化なのだとわかってきました。それは一朝一夕に魔法のように効くものではありませんが、ゆっくりと坂を上がるように、着実に効果が現れてくるのだとも感じるようになりました。

 

気づけば、幼少期のトラウマや、荒れていた20代や風俗にハマったりしていた30代とか、そんな若い頃の混沌とした意識の意味が分かり始め、それと同時に「過去への詮索」がどうでもよくなっている自分に気づきました。今、この瞬間が癒されていることこそが、何よりも重要だと思えるようになったのです。

タオの教えと「精エネルギー」の変容

今回の旅は、かつての7ヶ月間とは情報の密度が全く違いました。ネットやSNSを通じて、志の高い先人たちが残してくれた質の高い記録に触れ、何より「タオ(道教)」の教えに出会えたことは、私に決定的な転機をもたらしました。性エネルギーを単なる快楽の道具としてではなく、人生を切り拓くための「根源的な生命力」としてどう扱うべきか。その深い洞察を得ることができました。

 

内側にエネルギーが溜まってくるにつれ、段々と変わっていったことは、世の中の「メインストリーム(主流)」への興味が、驚くほど薄れていったことでした。かつてはエンタメ格闘技やスポーツ観戦を適度に楽しみ、スピリチュアルや陰謀論的な情報に心を寄せていた時期もありました。テレビやSNSが煽り立てる時事問題、政治を利用した大衆の感情的な対立。しかし、今の私にはそれら全てが、どこか作り物めいた「フェイク」や、実体のない「幻想」のように見えて仕方がありません。政治や時事問題など特にそうですが、以前の私なら何らかの反応をしていたであろうそれらの喧騒を、今はただ冷ややかに、客観的に眺めています。

 

そして、一つの確信に至りました。 「精を抜かれ、エネルギーが枯渇した状態」にあるからこそ、人は外部からの刺激に脆くなり、メディアにコントロールされやすくなるのだ、ということです。今の私は、外部にわざわざ問題を探しに行き、誰かを叩いたり、流布される情報に踊らされたりすることに、一滴のエネルギーも使いたくなくなってしまいました。エネルギーが満ちてくると、外側の騒音はただの背景音に過ぎなくなります。

 

「外側に正義や悪を探す必要はない。ただ、自分という中心を整えればいい」

その静かな確信が、今の私を支えています。

結論:内側を整えれば、世界が変わる

「この世界(3次元の現象)は、自分の意識がクリエイトしている」 量子力学的にも、あるいは原始仏教やタオの視点からも言われることですが、これは真実だと実感しています。

自分の中を整えれば、世界は後からついてくる。 外側の喧騒に惑わされず、内なる精エネルギーを純化させていくこと。それが、人生という物語を根本から書き換える唯一の道なのだと確信するようになりました。

 

「この世界は、自分の意識が観測することで形作られている」 これは量子力学的な考え方でもありますが、仏教やタオの教えとも深く共鳴しています。物質の最小単位(素粒子)は、誰かが「観測」するまでは波のような不確定な状態で、観測した瞬間に「現実」として固定されるという考え方ですが、つまり、自分の意識の状態が、目の前の現象に影響を与えるという解釈です。以前ヴィパッサナー瞑想をやっていた事もありましたが、そこで触れた原始仏教の思想にも通じるものがあります。

 

自分の中を整え、精エネルギーを純化させていけば、世界は後から勝手に変わっていく。 外側の騒がしい世界に踊らされる必要はありませんし、無理やり変えようとする意味もないし、外側と戦う必要もありません。

 

大切なのは、自分という神殿を整え、今この瞬間を静かに、力強く生きること。 それだけで、人生は全く別の景色を見せてくれるのです。