滞在4日目 クラクフ観光編②

 


現地時間6時起床。




今日は向かうのは、ポーランド行きを決めた時、何を置いても必ず行こうと心に決めていた、アウシュビッツ強制収容所。



昔、小学校2年の時に広島の原爆ドームへ。

中学3年の修学旅行は沖縄のひめゆりの塔へ。


その当時はまだお子様だったので、戦争に対して何かしらの意識を持っているわけも無く、ただ単純に抱いたのは残ったものを見て「怖いなあ」と言う感想のみ。



じゃあ、その時よりも少し大人になった今の状態で。

一応あの頃よりも知識とか見解とか色々なものが身に付いている今の状態で、そういう場所に行って、その時自分がどういう気持ちになってどういう感想を抱くのか。


珍しく真面目な話。


楽しい内容では、ない。

ちょっとそういうのは…という方はお読みにならない方がいいかと思う。


その反面。



私が見てきたものを、一人でも多くの人に見て欲しいと思う。



そんな、話。


(※画像が少々でかいので全貌を見るには手間で申し訳ないがクリックしてください)





アウシュビッツへはバスツアーにて。



明日の事は明後日にならないと分からない


他のお客さんが集まるのを待って、バスは一路アウシュビッツへ。
大体1時間半そこそこの距離。




道中の風景は、とてものどか。



明日の事は明後日にならないと分からない

明日の事は明後日にならないと分からない



けど、行く場所が行く場所なので、ちょっとあれこれ考えてしまうもの。



世界遺産 アウシュビッツ強制収容所



人類の、負の遺産。

人類の汚点。などなど。

ポーランドを知らなくても、この場所をご存知の方は多いはず。
結構ドイツにあると思われがちなのですが、実はポーランドにあります。

第2次世界大戦を引き起こした、と言われるドイツ第3帝国によるポーランド侵攻。

1939年9月の戦闘の後、ポーランド・オシフィエンチム市を含むその辺一帯は、ドイツ第3帝国の一部に加えられてしまい、同時にナチスはこの市の名前をアウシュビッツに変更。

アウシュビッツがドイツにある、と思われがちなのは、その当時のドイツ語読みのままになってるからなんじゃないかと。
ポーランドの人的には、あの強制収容所はポーランドが作ったものじゃなくてドイツが作ったんだ!ポーランドにあるからって、くれぐれも勘違いなされますな!っ事でポーランド読みのオシフエンチムとは言わず、アウシュビッツ読みのままにしてると言う説もある。

作られた経緯は、当時シレジア地方の刑務所で囚人が溢れていたのに加え、ドイツにはシレジア地方含む総督管区におけるポーランド住民の大量逮捕の必要性があった為、1939年頃にナチス内部で収容所建設構想が生まれたんだそう。

収容所に適した場所はどこだろう、どこにしよう?と、当時いくつかの特別委員会が開かれ、最終的に戦前ポーランド軍の基地があったオシフィエンチム市の軍撤退跡が選ばれたんだとか。

理由としては町の人口密集地から離れたところにあるので増設・隔離が可能な場所であり、かつオシフィエンチムは鉄道の要衝だったので交通の便が良かった事も理由の1つ。まあたまたま都合にいい感じの場所だったらしい。


そうして1940年4月、収容所設立命令が下され、その所長にルドルフ・ヘスという人が任命。
のちに彼は収容所内で責任を取らされて絞首刑となる。
別にこの人は任命され、上の命令に従っただけ(まあナチスな思想はお持ちだったんでしょうけど)で、むしろ「やだよ」と言おうもんならそれこそ自分が殺されてしまうような時代なのだから、この人がうきうきその役目についたのか渋々ついたのかは不明としても、気の毒な話だったのかもしれない。

そりゃあまったく責任無いとは言えん。

実際逮捕され裁判にかけられたSSの方々で「命令されただけで、私に責任は無い」って言った人もいるらしいし、それはそれでどうだろうと思う。難しい。


そして6月14日。
ゲシュタポによって、タルヌフ市から728人のポーランド人が政治犯として護送され、これがアウシュビッツで初めての収容、となる。


収容所が設立された当初は、14棟の1階建て、6棟の2階建ての建物があった程度。
41年から42年にかけて、収容されてた人たちの労働力を使い、1階建ての建物は全て2階建てに改築され、更にまた8棟の建物が増築され、42年には一時28000人が同時に収容されるまでに。
基本、平均収容者数は13000~16000人くらい。連れて来られた人達は地下室と屋根裏を含めたブロックに入れられていたそうです。

人の数が増大すると同時に、もちろん収容所地域もどんどん拡大。

徐々に収容所は巨大な施設に変容。


それに伴いアウシュビッツは強制収容所と言うか、絶滅収容所または絶滅工場。
そう呼んだって言った方がしっくりくるくらいどえらい施設になっていく。


そもそもナチスドイツの、ユダヤ人に対する最終解決策って言うのは、ぶっちゃけるとユダヤ人皆殺し計画。

そう言っても過言に非ず。


人間の命って、そんなに軽いもんじゃないはず。


なのに、当時それがまかり通っていたと言うのだから。

そうして41年にはオシフィエンチムから3k程度離れたブジェジンカ村で、第2の収容所建設作業がスタート。
後に第二アウシュビッツ、ナチスからはビルケナウと呼ばれる施設が誕生するのです。
現在この二つが、国立オシフィエンチム博物館として見学が可能となっています。

ドイツの証拠隠滅作業によって焼却された建物とか、今は展示用に改装されてるのを除けばほぼ当時のまま残っていると言う事。

行こうと思った理由は上に書いた通り。
多分、気分は重くなるだろうし行ってあー楽しかったーー、って感想は絶対に出ないだろうけども、それでも行く機会を得たからには非戦争経験者で平和な日本で育った若者は行っとくべきだ、と思ったので(もちろん、私個人の見解)


特に、ぬくぬくと食うに困った事も無くのんびり甘やかされて育ったよーな小娘(私の事ですけど)は、行って何かを感じ取って来るべきだと思ったのですよ。

で、まあそんな施設に到着。


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別に霊感が強いとか感受性豊かとかそんなんじゃない。


ただ、何ていうか、空気が物々しい。

と言うかじわ…と重いような気がする…。

この感覚は文章に表せないので、行ったら分かると思う。


と言うか、行かないと分からない。伝えられない。そんな空気。



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そして、いよいよガイド開始。

今日は日曜なので、人も多。


私の腕が悪いので見えにくいけど、アウシュビッツゲートの、有名な文字。



ARBEIT MACHT FREI



ドイツ語で、「働けば自由になる」と言う意味。
または労働は自由を作る、など。


ただ実際は「一度この収容所に入ったら、出口は煙突だ。」と言われている。

煙突、つまり意味しているのは、死。

よーく見るとBの文字が逆さになってんの、見えるかな?
これはこのゲートを作らされた収容者の方が、せめてもの抵抗の意を込めてわざと逆さにした、と言う説があります。


ほんとその程度。よく見ないと分からない程度にしか抵抗の出来ない、そんな状況下。



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監視員は毎日この門付近でマーチを演奏し(演奏してるのも収容者の方)、収容者が逃げないようにしていたとか。



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皮肉にも、見た感じは凄くのどか。

天気もいいので、素敵な風景にすら見える。のに。


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ところどころにある監視室。




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そしてぐるりと張り巡らされた、有刺鉄線。


当時は200ボルト以上の高圧電流が流れていて、絶対に逃げられないような環境。

(絶望のあまり、自ら飛び込む人も少なくなかったそう)

例え勇気を振り絞って逃走を図るも、見つかれば即射殺。

生きての脱走はほぼ不可能。

例え逃げられたとしても、また逃げようとした場合、連帯責任で同じ部屋(チームだったかな?)の人は全員首吊りの刑になるので、簡単に逃げようとも思わせられない、嫌なシステムです。
これがその、絞首刑のバー。



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この傍にその様子の写真(絵か?)が貼ってあったんですけど、あまりにも生々しくてそれはちらっとしか見れんかった。

棟は全部で28棟。



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その内訳は一般的に知られているユダヤ人の他、ポーランド人や戦争捕虜の旧ソ連軍兵士など政治犯、同性愛者などで、収容の目的は、彼らを排除すること、つまりは、殺す事。

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このパネルは、これだけ多くの地域からこのアウシュビッツに人が集められた、と言うのを示したパネル。

これは列車の様子を再現したジオラマ。



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見えにくいけど、こういう感じで列車に詰められ、多くの人が此処に運ばれ収容され、強制労働の末殺されました。


当時の労働風景。



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監視員やSSよりもはるかに収容者の方が多いので、暴動とかそう言うことは無いのか。

思う人がいるかもしれないけど、そこはうまい事考えられておりまして。

そのSSが被収容者の中で、指導的能力のある者を選んで、被被収容者のリーダーに任命。
リーダーは他の被収容者を監視する体制をとっていました。

そう言ったリーダーには個室が与えられていて、結構優遇されてたんだとか。
そうして、統制をとっており、その運営方法は実に巧みで計画的。

じゃあ、そのリーダーずるいやん、と思いきや。


これまた嫌な話。

そのリーダーは、ここでこう言った事が行われていた、と言う秘密が漏れぬように、定期的に殺されていた、との事。


リーダーに選ばれた人の中には、そうやって自分はいずれ殺されると言う事を悟った人もいて、しかし悟ったからと言って逃げられる訳でもない、だからせめて後世にこの事実を残さなければ…と、収容所のどこかに内部事情を紙に書いて(時には暗号化して)ビンにつめたりして、埋め隠していたとの事。

そう言う秘密の”手紙”は、実際に何通か見つかっている。


手紙の主は勿論、亡くなられて―――正確には、殺されて。



展示品のこれは、チクロンBと言う殺人ガスの空き缶。



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実際に使われた後。

当初ガスの致死量がわからず完全に亡くなれるまで2日かかった為、数分で死ぬ量が研究されたそうな。


そのガス室内部を再現したちっさいジオラマもあったんですけど、それはもう、酷すぎて直視出来ない、そんな、生々しさ。


何人もの人間が、広いとは言えないガス室にぎゅうぎゅうに詰め込まれ。

その人たちは皆、「これからシャワーを浴びるから」と言って服を脱がされ、ガス室に詰め込まれる。


で、実際に振ってくるのは、毒ガス。

ジオラマは、悶え苦しんで、少しでも空気を吸おうと、他の人を押しのけ(または押しのけられて)天井の穴に殺到している光景が再現されていて、思わず涙が出た。

沢山の人がそれで、一気に亡くなられ。

ぎりぎり生き残った人も本当に僅かながらいるそうですが、それは文字通り地獄の苦しみだったに違いない。


更に死体からは、金歯とかそう言うものも全部残らず見逃さず抜き取られ、当時のドイツで流通していたとの事。


人間の尊厳なんてあったもんじゃない。




何なんでしょうかね、本当に。

人間の所業ではない、と言う言葉が、多分これには当てはまるのだと思う。

でも、ガス室に人を押し込んだのも、その中にガスを放り込んだのも、同じ“人”だと言うのだから、不思議でたまらない。



酷いとか悲しい、と言うよりも、本当に不思議でならない。

でも確かに、どう否定したって、これは人間がやった事。


本当に、不思議。

謎と言う意味合いではなく、理解出来ないと言う意味で「不思議」だと思ったのは生まれて初めてかもしれない。




話がちょっと前後してるけど、ただただ展示品は進む。


ここに到着した人たち達は、まず洋服とそのほかのものを取り上げられ、髪を切られ、消毒を受けて、そして番号を付けられ登録され。


各人3ポーズの写真を取られて、1943年からは、その代わりに左腕に刺青を入れられたとか。
番号が刺青されたのは、アウシュビッツだけだったそう。

彼らは逮捕内容と収容所へ連行された理由によって、色別の三角形のワッペンで識別され、番号と一緒に服に付けます。大半の人は政治犯を示す赤。
支給された縞模様の囚人服は生地が薄くて、当然冬の厳しい寒さがそんなもんで凌げる訳も無く。
下着は一応、何週間ごとか何ヶ月ごとに着替えをもらえることも出来たらしいけど、洗濯は出来なかったとか。
当然伝染病も流行し、それで亡くなった方も多いとか。


展示はそんな彼らが、奪われたもの。







髪の毛。



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物品は分かるけど、何で髪の毛まで??


それを何に使っていたかと言うと。



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例えばこんな風にカーペットを作るため。
当時のドイツは品薄だったらしい。

当時約7トンのもの毛髪が集められ、2トンが残っていると言う。

私が入った展示室には、壁と言う壁端から端まで、ガラスの向こうに髪の毛が。


カーペットをDNA鑑定した結果、女性の毛髪で、毒ガスの成分が検出されたとの事。


これが実際に売られ、流通していたというのだから…


その他、めがね。



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靴。



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ブラシ。



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食器類。



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義足に至るまで。



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そして、カバン。




どれにも書かれている名前。


最初、後で返してやるから、と言われていたから、彼らは「預けた」つもりでそれらの品を渡してた。

そもそもが、東に移住する、と言って連れてこられたわけやから、当然彼らは生活必需品や商売道具を携えてくる。


それが実際は、全て取り上げられ。


最終的には、命も奪われて。




最初に書いた通り、私はここに来て何を感じるのか、それを知りたかった。



でもそんな次元の話じゃなかった。



何を、何ていう風に感じればいいか、戸惑うばかり。
これらは全てただの「展示品」でもなければ、ここで行われた事も映画の中で起こった事じゃない。

全て実際に生きていた人たちの遺留品。
実際に行われていた出来事。




簡単に感想なんて、出るわけが、無い。


更に進むガイド。

次は、あの鉄の扉の向こう。



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この先にあるのは、かの有名な"死の壁"



当時は病院だったという第10ブロックとその隣にある第11ブロックの間に、壁はある。



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これは収容者の人が銃殺の様子を見ないようにされていた目隠し。
…でも、ただ銃声を聞くだけも、相当な苦痛である事に変わりは無いはず。



死の壁



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何発もの銃弾を、人の体を通して受けた、壁。


レンガの前の、灰色の壁は何なのかって言うと、うっかり銃弾が跳ね返ったりなんかしてSSが怪我したりしないように、と言うもの。


ただ、それだけの為。



これは、傍の壁にあった空気穴。


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後で入った下の地下牢に続いているもの。
どんな牢かって言うと、畳で言うと、一畳も無い程度。とても狭い牢屋の、空気穴。

そこは無理やり4人もの人間を詰め込んで、窒息死させるための牢。


地下牢には、他にも餓死牢とか、そんなのもあった。



…何でそんな色んな方法で殺そうとするのか。




さて餓死牢と言うと、ここでコルベ神父、と言う方の話を。


マキシミリアノ・マリア・コルベ神父
本名、ライムンド・コルベ。


彼は1971年に列福され、1982年10月10日に教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)によって列聖。
いったいどんな方なのかと言うと、1941年7月末、脱走者が出た事によって10人が餓死刑に処せられることになった際、あるフランツィシェク・ガヨウィニチェクというポーランド人の軍曹が叫んだ。


「私には妻子がいるんだ!」

この時彼の後ろにいたのが、コルベ神父。


この声を聞いたコルベ神父が申し出た。


「私が彼の身代わりになりましょう。私はカトリックの司祭だから、妻も子もいません」

当時の責任者はこの申し出を許可し、コルベ神父は9人の収容者の人と共に地下牢の餓死室に押し込められ。


普通、餓死刑に処せられるとその牢内では飢えと渇きによって錯乱状態になった末亡くなってしまう、と言うのが普通だったらしい。

けれど、コルベ神父は9人を慰め、彼らは互いに励ましあいながら、そうしてやがて亡くなったのだそうです。
当時、牢内の様子を見に来た看守により、「牢内から聞こえる祈りの声や賛美歌を聞き、餓死室はまるで聖堂のようにだった」と言う証言が残っている程。



そうして牢に入れられて2週間。


コルベ神父を含む4人はまだ生存していて。
最終的にフェノールを注射して、コルベ神父らは殺害されたと言う。



この話をただの美談としていいかどうか、それは分からない。


ただ、自分がもし同じ状況に置かれたら。

そんな極限状態の中、例え目の前の人が、友人や家族だったら。

考えられずにいられない、そんな話。


ちなみにコルベ神父によって命を助けられたフランツィシェクさんは、90歳まで生き、天寿を全うされたそうです。


ツアーはまだ進み、次はガス室の方へ。


その途中にあった、冒頭の方で書いた、ヘス所長の処刑台。
彼はここで、刑に処されました。



明日の事は明後日にならないと分からない


そしてその傍にある、ガス室。



明日の事は明後日にならないと分からない


中は撮影禁止。


でもたとえ許可されてても、撮影なんて、出来ない、そんな、空間。


沢山の人が、殺された場所。



壁や、天井に残る傷の一部は、ガスを逃れようとした人の、爪跡。

これは実際に見ないと、信じられないかもしれない。


石造りの壁に、爪の、跡。


隣にあるのは焼却炉。

ガス室で死んだ人を、すぐに焼けるように、作られたもの。

まさに殺人工場の名に相応しい施設。
開放された当時、まだ人骨が残っていたと言うのだからまた…。





アウシュビッツのガイドは一旦ここまで。
次に向かうのは、第二アウシュビッツ、ビルケナウ。



慰霊碑。



明日の事は明後日にならないと分からない


この碑は、ヨーロッパ22ヶ国の文字で書かれてる。
これは英語。


明日の事は明後日にならないと分からない



Forever let this place be a cry of despair
and a warning to humanity
where the Nazis murdered
one and a half million men,
women and children, mainly Jews
from various countries of Europe.
Auschwitz Birkenau 1940-1945

この場所が永久に、絶望を嘆き、
人類への警告の場となるように。
ナチスが、ヨーロッパのさまざまな国から来た、
150万人の、主にユダヤ人の男性、女性、子供たちを
殺害した場所。



これはビルケナウにある、当時のガス室だった場所。


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撤退前、SSが証拠隠滅の為に燃やしたそうな。


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慰霊碑の向こうに見える池?が、殺害し焼却した人の灰を捨てた池。
ちなみに慰霊碑には、


To the memory of men, women and children
who fell victims of the Nazi genocide.
Here lie their ashes.
May their souls rest in peace.

ナチスの虐殺の犠牲になった男性、女性、子供たちを追悼して。
ここに彼らの灰は眠る。
彼らの魂が安らかに眠らんことを。




これは、よくテレビでもみる風景じゃないかな?
通称、死の門。



明日の事は明後日にならないと分からない


詰め詰めの列車から、やっとこさ下ろされた方々は、ます2列に分けられる。
18歳~40歳の元気そうな人は、左へ。

それ以外の人は全員、右へ…。
その時の監視員が、見た感じで判定。

左へ言った人は強制労働。

右は、ガス室。


何人もの人の運命が、たった一瞬にして決められてしまった、そんな地点。


本当に、どこまでも広い土地。



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面積は約175ヘクタール(53万坪)
当時300棟以上のバラックがあったけども、そのバラックは全て現在まで残っているわけではなくて、ほとんど完全な形で残っているのは45棟のレンガ造り、そして22棟の木造の囚人棟だけ。



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バラック。



この木造りの、はっきり言ってお粗末なベットに、当時一段につき8人くらいの人間が詰め込まれていたそうです。


これが唯一の暖房器具。

ただ、





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こんな風に、急いで作ったからか、隙間だらけ。
それでポーランドの厳しい冬を過ごせる訳が…。
さらにこれ、何かって言うと、



明日の事は明後日にならないと分からない


トイレだそうです。


しかも、1日2回で1回につき1分もない時間。
プライバシーも無ければ、トイレすら自由が無い。

ここに比べたらアウシュビッツの方がマシ、なのだとか。





ツアーはここで終了。



バスに乗り込んで、クラクフへ。




さて。
全てのツアーを終え、最終的に私がどんな感想を抱いたかと言うと。



結局はっきりしたものは何も無い、と言うのが答え。


信じられない光景を見すぎたせいか。

ただただ、わからない。

何でこんな事が行われたかわからない。

ただ、悼ましいな、とだけ。

私自身は戦争を経験していない。


お婆ちゃんとかから話は聞くけど、でも所詮、実体験はして無い。

アウシュビッツも同じ。

知らない世界。私の生まれた遠く離れた地域で、行われていた事。

だから関係無い、とか実感が沸かない、と言う訳で、ない。

ただ不思議な感覚と、純粋に、なくなられた方々への、お悔み。


私の感想はそこまでにしておきたい。




元々、戦争やらに関して、自分の考えを述べるのは苦手。

だって当事者じゃない、から。

あくまで自論なれど、当時の当事者達ですら答えの出なかったものを、後世資料を見ただけの人間が答えを出せるわけがないと思う。


何が正しいか、正しくないか、それは分からない。

少なくとも私は分からない。

ナチスの事、戦争の事。どれも私には分からない。


詳しく歴史書や資料を読めば「知識」を得る事は出来る。


でも、正しい意味で「理解」する事は多分出来ないままなんだと思う。


ただ、なくなった方々に対して、安らかでいて欲しい。


次に生まれる時は、穏やかな人生がありますように。

ただ、それだけに留めて置きたい。



実際、こういったホロコーストを、否定する人も、いる。


そんな事は無かった。アウシュビッツは滑稽な作り話だ、と言う方も。


それも単に無根拠に唱える論理でもない。彼らには彼らの根拠に基づいた主張がある。


私はそれも、別に否定するつもりはない。


どっちが真実か、分からないから。


だから、どこまでも分からない、でいい。


何かを否定するでもない。 自分の目で見たものを、嘘とも思えない。
だからやっぱり、分からない、で。



けど一つだけ。
何が正しければ、何を共通の思想とすれば戦争は起こらないのかとか、そんな事は分からない。


ただこれだけは、共通で頭の中に置いておくことは出来るんじゃないかと思った事が一つ。






誰でもこれだけは知ってるはず。








人が死ぬって、悲しい事なんだ、と言う事。





それだけ。








最後に。
アウシュビッツのどっかの号棟に飾られていた言葉。



明日の事は明後日にならないと分からない


アメリカの政治家、サンタナヤの言葉。



"The one who does not remember history
is bound to live through it again."

歴史を記憶しないものは、
再びそれを繰り返す事となる