さて思わぬほど長く連載になってしまいましたが”トルコ”は今回にて終了させていただきます。

偉そうにエルトゥールルの経緯を書き連ねましたが、私自身がこの顛末を知ったのはここ10年程のことです。
また、トルコ航空機による日本人救助の概略は知ってはおりましたが、今回改めて森永さん、沼田さんの詳細を調べてその実態に触れたのはごく最近です。特に沼田さんのイランを脱出する緊張感あふれる顛末には、思わず涙を禁じ得ない場面もありました。
また森永さんのご活躍、それに応えていただいたオザル首相には敬意を表したいです。

さて、沼田さんの手記は一部を割愛しましたが、その中には『なぜ、日本は救援機を出さなかったか?その真実を知る』というページもあります。
今回の救出に力を発揮したのは民間人であり、政府や官僚は結局なにもできなかった。続々と自国民が救出される中で日本は置き去りにされたと言ってもよい。
自衛隊機の救出に反対するバカ左翼、紛争地帯で安全が保証されねば飛ばないという航空会社・・・・取り残された人の気持ちは沼田さんの手記でよく分かる。


さて今一つはエルトゥールル号の顛末だ。
こうした事は学校で教えるように義務付けられないのか?私自身、たまたま観ていたテレビでこれらに触れたものがあったのを経験はしているが、なんとも歯がゆい!!

さて、最後は私自身のトルコとの関わりだ。
こうした色々を知った私はある旅行社のトルコ旅行のツアーの説明会に行き、十分納得して手付金を払う段取りまでした。
北京オリンピックの年の秋の旅行予定であった。
そうしたらオリンピックに入ってからロシアがグルジアに侵攻した。年老いた義母が心配、反対するであろう・・・・・
泣く泣くこのツアーをあきらめた!
結局は行ったとしても何も起きない事態であった、できればここ数年の内に行ってみたいと心底思っている。

この件に限らないが、日頃に起きる様々な事態には当事者にしか分からない経緯や背景がある。
昨日に新聞で報道された一事件も同様だろう。
しかし、全ての事態の背景を詳細に掴むのは不可能だ。
私はトルコ機によって日本人が救助された事は知ってはいたが、今回に紹介した森永さん、救出された側の詳細を語った沼田さんの事はこのブログを書くにあたって初めて知ったのだ。

そもそもトルコとの関わりを知った(エルトゥールル遭難事故)のはネット、You Tubeであった。
今回の森永さん、沼田さんもネットで詳細を掴んだ。
ネットは時に膨大な情報量で辟易とすることもあるが、こうした貴重な材料をも与えてくれる。
私達は幸せな時代にいるのかもしれない・・・・・・・
ここからも沼田さんの手記は続くのですが、一部を割愛して数点を転用させていただきます。

第10話 『在日トルコ共和国大使館で初めてトルコの人に直接お礼が言えた』 

 エルトゥールル号遭難事故の事を知って、何としてもトルコの人に直接お礼を言いたいという気持ちを抑える事が出来なくなり、在日トルコ共和国大使館に連絡を取らせてもらいました。

私の様に全くトルコに友人も知人も居ない一個人が連絡を取っても、相手にされないか、応対してくれても誰かの紹介を求められると考えていました。しかし、私が想像していた事とは全く違って、私の簡単な自己紹介と1985年にトルコ航空で助けられた日本人であることをお伝えしただけなのに、数日後の12月10日に大使館に来て頂ければ参事官が会いたいという事で、その日に大使館に来られるかどうかという事でした。
考えられない事です、勿論私は即座に返事をさせて頂きました。会って頂けるだけでも私にとっては大変有難い事なのに、大使館に招いて頂けるという、これ以上の嬉しい事は有りません。

 私にとって外国の大使館を訪問する事は初めての経験なのでどの様な事を準備すれば良いのか判りませんでした。
私が考えている外国の大使館は門を一歩入ればそこは外国、だから当然その門を通れば外国に足を踏み入れる事なので、厳重なチェックが有るだろう、少なくともパスポートチェックは必要だろうし、その他にも自分の身分を証明する物が必要であろう、例えば、写真が入っている自動車運転免許証とか健康保険証、しかし、大使館に確認したところその様なものは全く必要無くただ正門を入ってセキュリティー担当者にアポイントを頂いた参事官のお名前と自分の名前を告げれば良いと云う事でした。
本当に驚きました、こんな事で大使館の安全が守れるのだろうかと私の方が心配する程簡単に入館させて頂けるとの事でした。

 2008年12月10日、お約束の時間少し前にトルコ大使館に到着し入館しました。
正門を入り、少し行った左手に大使館に入る入口が見えました。そこを入ったら、守衛室が有りましたので、事前に言われていた通りアポイントを頂いていた参事官のお名前と自分の名前を名乗りました。直ぐに大使館に入るオートロック扉のロックを外してくれて「どうぞ中へ」と促されて扉を開けて入りました。そこは大使館の敷地の中です。玄関を入って直ぐの所に受付が有りそこに日本人の女性が訪問者の対応をしています。

 訪問者記入リストに記入し、ロビーの椅子で待たせてもらいました。待っていると間もなく右手の扉から女性が出て来て参事官室に案内してくれました。
参事官は待っていてくれて、私が入って行くと直ぐに立ち上がり握手を求めて来ました。握手をしながら名前を告げお時間を取って頂いた事にお礼を言うと、接客用ソファーをすすめられました。参事官と私がテーブルを挟み座り、秘書の方は私の隣に座ってくれました。

 早速、25年前テヘランからトルコ航空で助けてもらった事を手短に話し、心からのお礼を言いました。秘書の方がトルコ語に訳してくれて私の気持ちが直接参事官に伝わり、逆に参事官からわざわざ感謝を言う為に来た事にお礼を言われてしまいました。
 
暫く、25年前のその時の状況などを話した後、1999年8月のトルコ北西部大震災の復興状況をお聞きし、復興支援の募金を申し出ましたら、トルコ政府としては義捐金の受付は既に終了していて、折角の申し出ですが、お受け出来ませんとの事でした。それではそれに関する事で寄付をする事が出来ないものかお聞きしましたら、兵庫県のある団体が活動をされている事を教えてくれました。具体的な名前は判らないという事でしたのでお時間を取らせた事へのお詫びとお礼をして大使館を後にしました。

25年経ってやっとトルコの方に直接お礼が言えた瞬間でした。私は何と幸運なんだろう、こうやって直接トルコの方にお礼が言える日が有るとは考えてもいませんでした。

第14話 『25年後再び天国・イスタンブールを訪れる』 

串本町での2010年6月3日から5日の「日本トルコ友好120周年事業」に出席させて頂いて、帰宅して間もなく、和歌山県海南市の作曲家・指揮者の向山精二さんから連絡がありました。
向山さんは和歌山県の「北六班の歌」「幻想組曲粟嶋神社」「高野山の四季」「紀伊の国交響組曲」等を作詞・作曲された方で和歌山県、関西地区に於いてコンサートを開催している方だと言う事でした。

向山さんは最近になって、エルトゥールル号事故の事を知り、これはすごい事だ、和歌山県の先人がした素晴らしい人間愛の行動を音楽にしたいと思い立ち、「紀伊の国交響組曲第四楽章」に「エルトゥールル号の乗員に捧げる曲」「友情・エルトゥールル号の軌跡」を追加作詞作曲し、関西地区を中心にコンサートを開いていました。エルトゥールル号の出来事について勉強するうちに、このエルトゥールル号の事故が日本・トルコ両国を深く結びつける事になり、それから95年後の1985年3月にトルコ航空によるテヘランからの日本人救出劇が有った事を知りました。

これが両国の「友情」を更に深めた事を知り、この事を音楽にして日本とトルコの友情を広く伝えて行きたいと考え「友情」その1「九死に一生」を作詞・作曲したそうです。

 そんな折、たまたま私が串本町の「日本・トルコ友好120周年事業」に参加し、私達がトルコ航空で助けられたのは、エルトゥールル号の事故の時、串本町大島の人達が中心に献身的な救助活動をしてくれたお陰でしたので会場においでの皆さんにお礼を言わせて頂きました。
その事が後日、和歌山県で報道されましたので、向山さんは私がトルコ航空でテヘランから助けられた日本人の一人である事を知り、コンサートの休憩時間に音楽の好評と当時の事を話してもらえないかとの依頼が有りました。
私としては、トルコが私達日本人にして下さった家族愛にも勝るとも劣らない友情で助けてくれた事を多くの人に知って頂けるので有ればとの思いからこの申し出を受けさせて頂きました。
 
このコンサートは大阪・ザ・シンフォニーホールを皮切りに東京・サントリーホール、トルコ・メルシン、アンカラ、イスタンブール・アヤイリニ教会で行われました。私はこのうちの東京・サントリーホールとトルコ・イスタンブール・アヤイリニ教会のコンサートに参加させて頂きました。

 イスタンブールへの訪問は実に私がトルコ航空で助けて頂いてから25年経った2010年7月27日でした。
向山さんのお陰でトルコへのお礼をさせて頂く機会を頂いた訳です。会場には1200人を超えるトルコの方が来られている中でお礼を述べさせて頂きました。こんな幸運な事は滅多に有るものでは有りません。
更にサプライズとして、1985年3月19日私達を助ける為に来てくれたトルコ航空の機長だったオルハン・スヨルジュさん、機関長のコライ・ギョクベルクさん、キャビンアテンダントのアイシェ・オザルプさん、デニス・ジャンスズさん、ナーザン・アキュンレルさん、そして、森永さんが壇上にお上がりになり私と握手をしてくれたのです。余りの突然の事で私の頭の中は真っ白になってしまいました。

 翌7月28日には、在イスタンブール日本国総領事公邸でオルハンスヨルジュ元機長他何名かの元トルコ航空の方々とお会い出来る事になっていましたので、まさかコンサート会場でお会いする等とは夢にも考えていませんでした。
コンサートの翌日には予定通り日本国総領事公邸で元トルコ航空関係者の方々、森永さんとお会しました。正に私達の命の恩人達です。

この夢の再会は、在イスタンブール日本国総領事館総領事と副領事で、私の様な者の為に公務でお忙しい中、色々奔走して開催して下さいました。何とお礼をしたら良いか判りません。私はこんなにも多くの皆さんに助けて頂いて、命の恩人の方々にお礼を言える場を作って頂いたのです。この日は日本に帰国する日です、ここで感じたこの思いをしっかりと心に刻み決して忘れない様にしなければいけないそんな思いを強くしたイスタンブール再訪問でした。

 皆さん本当に有難うございました。

沼田さんのトルコに対する思いが伝わってくるページです。
大使館に御礼に出向き、ついにはトルコにも再訪します。その切っ掛けとなったのは、エルトゥールルに端を発する串本町との関わりでした。ご本人は語っておりませんが、串本町に「ふるさと納税」を続けておられるとの事です。
沼田さん、本当にご苦労様でした。


なお、沼田さんの手記全文は次のサイトで閲覧できます。
第7話 『帰国』 

イスタンブールでは久し振りの休日を過ごしました、その上、命の洗濯をと云う事でパリで一日を過ごさせて頂くという粋な計らいをしてくれました。
こんなに も平和で楽しい時を過ごすと、これは夢ではないか、夢から覚めるのではないかと不安がちらっと頭をよぎりました。それならそれでいいや、この命は拾った様なものだから、そんな気持ちでパリでも思いっきり楽しみました。

夢の様に過ぎた2日間も終わり、いよいよ今日は日本へ帰る事が出来ます。人間これ程迄も変れるものなのでしょうか。3日前までは不安と恐怖で押し潰されそうな重苦しさで先の事等考えられない程だったのに。

パリからの飛行機の中で、私は、五輪真弓の「恋人よそばにいて・・・・・」を繰り返し繰り返し何度も何度も聞いていました。あの時は何でも良かった、何は ともあれ日本のものに触れていたい、そんな気持ちだったのだと思います。このカセット・テープは今も大切に私のCDラックの奥にひっそりと眠っています。

3月21日長い長い飛行機の旅の末成田に着きました、工場から出張してくれていた4名の家族の出迎えが有りました。出掛ける時は意気揚々と胸を張って出掛けたのに、意気消沈して今は何も言う事が有りません。ただ、今回の出張は結果として私が皆を巻き込んだ形になったので、ご家族の皆さんにお詫びを言わせて頂きました。
成田空港の時の事を振り返って仲間の一人は次の様に話してくれました。
「私の妻は当時6ヶ月になった長女をかかえ出迎えに来てくれました。会社の総括の方が同行してくれていましたが子供が乳児だったので家から成田まで大変だったと言っていました。その他の皆さんもそれぞれ家族に会って嬉しそうでした。たしかMさんは新婚ではなかったかと思います。Aさんも奥さんが出迎えました。

日本ではテヘランは戦火という報道がされていたので無事に帰って来た事を喜んで 泣いているご家族の方もいました。」
私は「こんな結果になって本当に申し訳ないと心から思いました」ただ、幸いな事に全員が無事に日本に帰って来れた事、ご家族に元気なまま返してあげる事が出来た事、これは私達と行動を共にし、最後まで私達を助ける為にテヘラン中を駆け回り、在りとあらゆる手を尽くしてくれたN商社の皆さん、そして、日本の商社、日本大使館そしてこの人達の誠心誠意に応えてくれたトルコのお蔭なのです。

「さあ、家に帰って家族共々、生きている事の喜び、平和で有る事の喜びをかみしめよう」ようやく私は家に帰って来ました、でもイランで起きた事、トルコに助けられた事も含め詳しい事は一切話しませんでした。
何故だろう「私の気持ちの中には、日本に見捨てられた自分が情けないという想い、家族にもその事を知られたく無いという気持ちが有りました」

日が経つにつれて、少しずつはあの不安、あの恐怖は薄れては行ったものの心の傷は簡単には癒されませんでした。会社に行ってもやはりこの事は言わずにいました。怖かったとか、不安だったとか言うのは男として恥ずかしい事だという気持ちが有ったからでした。
だから結局、トルコが私達を命がけで助けてくれた事も言わないまま月日が過ぎて行きました。色々有ったけれど今はこんなにも平和で安心して生活が出来る、あの時の不安、恐怖を早く忘れたいそんな気持ちが支配していました。でも、今でもこの時の事を話すと涙が出て来てどうしようも有りません。

第8話 『衝撃の歴史を知る、エルトゥールル号の遭難』 

どうしてトルコが私達を助けてくれたかの真相を知らないまま23年が過ぎた2008年10月17日、つけっ放しのテレビに偶然目が行った時、そこに放送さ れていた番組は「世界を変えた100人の日本人」でした。私の目はそこに釘づけになりました。

その内容は、私達がテヘランから助けられた95年も前の 1890年に和歌山県串本町大島の沖合で台風に遭遇したトルコの軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、581名の乗組員が死亡、69名が救出されたというものでした。
この時大島の人達を中心に献身的な救助活動をした事、当時、大島は必ずしも裕福ではありませんでした。その大島の人達は救助した69名の為に医師は治療費は取らず、村の人々は生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならない苦労をし、自分達の生活をも犠牲にしたという事でした。
この大島の人達 の献身的な救助活動の恩儀を感じていたトルコが、95年後の1985年3月19日、テヘランに取り残されて、身動きが取れなくなっていた日本人を救出する為に救援機を派遣して、トルコ人よりも優先して助けてくれたというものでした。

恥ずかしい話ですが、私はこの「エルトゥールル号遭難事故」の事を全く知りませんでした。
1985年3月20日の日本の新聞では日本経済新聞が、「イラク の一方的警告の期限切れ直前、日本人二百十五人らを乗せた二機のトルコ航空機が緊張高まるテヘランのメヘラバード空港を飛び立った。エールフランス、ルフトハンザなど外国航空会社の特別機が次々飛び立つ中で、搭乗を拒否され続けた邦人がイラン脱出の最後の望みを託した救いの翼。」と辛うじてトルコの日本人に対して特別の対応をしてくれた事を報道。その他の新聞は救出の事実だけを伝えているだけで、どうしてトルコ航空が日本人を救出したのかは触れていない。

3月21日になって一部の新聞は報道してはいるものの、“日本とトルコは「安部外相が一昨年、訪問したほか、今年前半にはエザル首相(オザル首相の間違い)の来日が予定されるなど友好関係が続いているが、日本側は「友好関係の成果」としてトルコの対応を評価している。“と上から目線の報道がされていました。この報道からみても多くの日本人は何故、テヘランからトルコ航空が日本人を救出してくれたのか、その真実は知らなかった様に思われます。

私はこれを機に、日本とトルコの関係を知りたいと思い色々な資料を集めて読みあさりました。
そして自分がいかにエルトゥールル号の事故の事を知らないかを思い知らされました。それと同時に、特定の地域の人達がその歴史を必死に後世に語り継いでいた事が判りました。そうした、一部の人達の努力が私の命を助けてくれたのだと判り、何としてもその人達へ恩返しをしたいと思いました。
それと併せて、テヘランの地獄の淵から私を救出してくれたトルコ航空の事を多くの 日本人にどうしても知ってもらう為の努力をしなければいけないと思いました。

いよいよ沼田さんがエルトゥールルの事を知りました。
沼田さんは”恥ずかしい話”と言っておりますが、何も沼田さんが特別ではありません。この私の数年前の姿でもあります。
ここでシリーズで採り上げたポーランド、ウズベキスタン、パラオ共和国、インドネシア等についても同様です。
さすればこれは・・・・・「教育」の問題かもしれない。
日本は侵略をした、迷惑をかけた・・・こうした方面だけ教育する(当に自虐史観)方向は間違っていて、こうした誇れる面も是非に教えてほしいと私は思う。
これらを知れば日本に誇りを持てるはずだ。

第5話 『WELCOME TO TURKEY』 

テヘラン・メヘラバード空港を飛び立ちホッとしました。
しかし、何時イラクが空爆をして来るか判らないのです。空軍が勝手に航空機撃墜をするかも知れないし、イラク・フセインの気が変わって攻撃して来ないとも限りません。何しろイラクにはアメリカもソ連も後ろ盾になっているのだから怖いものは無いのです。

機内はシーンと静まり返って話声もしない。何時撃墜されるか判らない、そんな恐怖で身体を強ばらせて身動きもしませんでした。どれ位の時間が経ったのだろう、私にはとてつもなく長く感じられました。
その時、機長の機内アナウンスが響き渡りました。
「WELCOME TO TURKEY」
次の瞬間、機内に「わあっ」という歓喜の叫びと、大きな拍手とが起こりました。
この時ほど生きている事の喜びを感じた事は有りませんでした。「ああ、これで助かった」これ迄凍りついていた血が身体中を駆けめぐりました。そして涙が止めどなく溢れて来ました。周りの人達も皆泣いています。一緒に脱出して来た仲間も皆おそらく泣いていたでしょう。
今、私達はトルコ航空機の中にいるそして、まぎれも無く生きているのです。 こうして、仲間は誰一人戦争の犠牲に成らずに無事日本に帰れるのです、良かった、本当に良かった。言葉では言い表せない安堵の気持ちがこみ上げて来てホッとしている自分がそこにいました。

イスタンブール・アタチュルク空港に到着し、ここでもまた、タラップをどうやって降りたのか、到着ロビーまでどうやっていたのか覚えていません。
到着ロビーの荷物受け取り場に降りる階段の上に立った時、ものすごい閃光が走り、その光の多さに驚き一瞬足がすくみました。その光の方を良く見ると、大勢の人がカメラで私達の方を撮っていたのでした。涙でかすむ 階段を一歩一歩降り乍ら、「ああ、私達はこの国の人達に助けられたんだ」「私達の無事を喜んでくれているんだ」有難う、本当に有難うと心の中で繰り返しながら荷物受け取り場に降りて行きました。

荷物を受け取り、ロビーに出ると日本の商社の皆さんや大勢の関係者の方が我々の乗るバスに案内してくれました。バスに乗っても今自分がどうなっているのか判らないでいるとホテルの玄関前に停まってくれました。ホテルに着いたので直ぐにチェックインし、部屋に荷物を置いたらレストランに集合するよう確認し、夫々の部屋に行きました。荷物の重さは全く感じませんでした。

第6話 『イラン戦友会の結成』 

イスタンブール・エタップホテル、そこは私達にとっては天国でした。つい半日前迄の地獄から救い出してもらい、今は天国にいるのです。
私は部屋に荷物を放り投げる様に置き、そそくさと皆のいるストランに向かいました。テーブルを囲むどの顔も喜びと安堵感で晴れ渡っていました。さあ乾杯「イラン戦友会」の結成です。

ここからは、誰も彼もが浴びる様に飲みました。
皆生きている事の喜びを噛締めながら。私も後にも先にもこんなに沢山のアルコールを飲んだ事は有りません。先ずはビールで乾杯、そしてトルコのワイン、その他手当たり次第でした。
朝気が付いたらベッドに寝ていました。どうやって部屋に帰って来たのか、どうやってベッドに寝たのか全く記憶が有ません。しかしここはまぎれも無く、トルコ・イスタンブール。

ゆったりと朝食を済ませイスタンブール観光に出かけます。見るもの聞くものみな平和で楽しい、この私達の命の恩人の国、でも良く知らない土地だけど思う存分羽根を伸ばそう。皆と一緒に近くを歩きまわりました。
気がついたら川の様な所の近くに来ていて橋が掛っています。何か大型トラックが渡ると壊れそうな橋です。
そんな橋を見ても唯もう嬉しいんです。今日はもう何の心配もしないで思いっきり喜びをかみしめよう。そして明日はパリ経由で日本へ帰れるのです。

暫くイスタンブールの街の中をぶらぶらしていて気が付いたのは、トルコの人達は皆私達に笑顔を向けてすれ違う。
トルコの人達はどうしてこんなにも私達に優しいのでしょうか。(この疑問を23年後の2008年10月17日に知る事となりました)
イラン人もまた優しい人が多かった。私達がテヘランに取り残された事を本当に心配してくれたし、一生懸命私達が被害に合わない様に気を使ってくれました。 でも、イラン政府は日本人をイラン国外への救出はしてくれませんでした。
トルコもイランも同じイスラム圏では有るが政府が全くと言って良いほど違う。トルコは政教分離なのに対して、イランはイスラム教政府なのでイスラム教の トップが最高指導者となっているのです。然もこの人が言う事は絶対で誰も異を唱える者はいないのです。私にとってのイランは友達も多いし思い出の多い国ですが、トルコは私の命の恩人です。

海(ボラポラス海峡?)が見えて来た、沢山の船が行き駆っている、何と平和なんだろう。ここ、イスタンブールは自然が多く木々は生い茂り、直ぐ近くには海が見られました。という事は、さっき川の様な所と思ったのは海峡なのだろうか。 ああ、私達はこの国に助けられたんだ、何と幸運なんだろう。この事は一生忘れてはいけない、そう深く心に刻み込みました。
このトルコに命を助けられ、「イラン戦友会」を結成する事になったのはこの上ない幸せな事に思いました。

「WELCOME TO TURKEY」の案内にあがる歓声、こぼれてくる涙。乗客の安心感が激しく伝わってきます。
ホテルでの食事、浴びるように呑んだ酒。森永さんのページにもありましたね「生牡蠣をぺろっと平らげていた」と。
第3話 『早く脱出したい、しかしどうにもならないこの焦燥感の中、3月17日が』 

3月12日の空爆のミサイルはN商社のオフィスのすぐ近くにも着弾したので、N商社の社員が出勤途中にそこを見に行ったそうです。
歩いていたら少し小高くなっていた所が有ったので、その上に登りミサイルの着弾した所を探してきょろきょろしていましら、近くにいた人がミサイルが着弾したのは、お前が乗っているそこだよと教えてくれたそうです。
そう言われて良く見るとそこはビルディングが建っていた所で、そのビルディングが跡形も無く崩れ落ちてがれきとなって 少し小高くなっていたと言うのです。これじゃ人間はひとたまりも無いと思ったと言う事でした。

もう工場に行くのは危険という事でN商社社宅に待機する事にしました。しかし、社宅は部屋数が足りなく全員がここに一緒に住居する事が出来ない上、もしミサイルの直撃を受けた場合、全壊となり人的被害は避けられないと思いました。
そこで、皆で話合って、全員を収容出来、地下室が有る所を捜そうと云う事になりました。地下室なら直撃を避けられるのではないだろうかと考えたからです。この条件に合う所として下町に有るラマテア・ホテルが良いだろうという事になりました。

翌3月13日になって、16日か17日のアエロフロートだとチケットが取れるかも知れないという情報が入って来ました。
この機会を逃すともうチャンスが無いかも知れないという不安が有りましたし、それとヨーロッパ航空便よりアエロフロートが安心ではないだろうかという考えが有りました。
それは如何にイラクと言えどもソ連の航空機を撃墜したら何をされるか判らないからやらないのではないかという期待の考え方が根底に有りました。そこで、アエロフロートのチケットも入手する方向でN商社が動いてくれました。

12日の爆撃でベッドからはじき飛ばされた日産の技術者はもう限界になっていました。
夕食をN商社社宅で済ませ、皆一緒に移動し、午後7時にはホテルに落ち着きました。これで全員が一緒にいるので、何時でも一緒に行動出来る状況が出来ました。
しかし、これで問題が解決した訳では無いのです。飛行機の空席が取れなければ国外に脱出できません、相変わらず、N商社の社員はテヘラン中のヨーロッパ航空会社のオフィスを駆けずり回り空席を捜してくれていました。

こうしている間にも時間はどんどん過ぎ、3月17日になってしまいました。
この日の夕方、イラク・フセイン大統領は戦局の硬直状態に苛立ち「3月19日 20時30分以降イランの空域を飛ぶいかなる航空機も安全を保証しない」という悪魔の警告を出しました。在テヘラン日本大使館からは直ちに在住日本人に知らされました。

しかし、我々はどうする事も出来ませんでした。飛行機の空席が取れる事を待つしか無いのです。イラク・フセイン大統領の警告は関係の無い国の民間機迄撃墜すると云うもので、普通考えられない事でした。
これを聞いて我々はヨーロッパ航空会社は欠航してしまうのではないかと思いました。もはや航空便での脱出は不可能かと思い絶望感に追い込まれました。

第4話 『友情の翼・トルコ航空』 

タイムリミット一日前の3月18日になっても乗せてもらえる飛行機は一向に見つかりませんでしたが、思いもしなかった朗報が入って来たのです。
それは、私達が技術指導していたKD工場の一社、ザムヤッド社の技術指導に来ていたスエーデェン・ボルボ社の技術者がバスでトルコに脱出するので皆さんも一緒に行きませんかと誘ってくれたのです。 私達は直ぐに荷物をまとめて、待ち合わせ場所に駆け付けました。

しかし、私達は車では国外に出る事は出来なかったのです。それは、私達は飛行機で国外に脱出する事ばかり考えていましたので事前の出国手続きをしていなかったのです。ですから、このバスでトルコに脱出しようにも国境を越える事は出来ないのです。折角のチャンスを泣き泣き諦めるしか有りませんでした。

そしてとうとう3月19日、タイム・リミットの日がやって来てしまいました。
それでもN商社の社員はその日もヨーロッパ航空会社に私達の為に席を分けてもらえる様頼みに回ろうと、夜の明けるのを待って起きていてくれたのです。
すると、夜明け前に日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が飛び込んで来たというのです。皆小躍りして喜びました。しかし、冷静になって考えてみると、どうしてトルコなのか判らない、日本からの救援機は来ないし、ヨーロッパの飛行機にも乗せてもらえないし、信じられない、そんな気持ちでした。

しかし、考えていても仕方が無い、兎に角行ってみようと云う事になり、N商社の社員の一人がトルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走りました。

その間私達は何時でも空港に行ける様に荷物をまとめ、玄関横に並べて、トルコ航空に行った人からの連絡を待ったのです。しかしなかなか連絡が来ません。
朝6時にホテルを出て、10時半ごろようやくチケットが買えそうだという一報が入ったのです。

早速N商社の社有車で空港に向かったのですが、日本人が空港に 向かった丁度その頃、各国の取り残された人達は自国の救援機に乗る為に空港に押し寄せたのです。空港敷地内はかなり広いのですが、ものすごく多くの人が集まって来たので、大混雑に成り、空港ビルに辿り着くのは容易では有りませんでした。
やっとの思いで空港ビルにたどり着いたのですが、肝心のチケットを買いに行った人が帰って来ません。結局、チケットを買いに行った人が空港に着いたのは午後2時過ぎです。

ここからようやく荷物チェックです、ここでもまた時間が掛りました。それは一人一人のスーツ・ケースを開けては中に手を入れ確認するのです。それが終わると次は、ショルダーバッグ、そしてハンドバッグと、全部中をのぞいて確認するのだから時間が掛る事この上有りません。
やっと荷物チェックが終わり、トルコ航空チケットカウンターでチェックイン、この時はイランでは今迄になかった位素早く処理してくれて、搭乗券を渡してくれました。

搭乗券さえ貰えばもう直ぐにでも飛行機に乗れる、そう思いました。ところがパスポートチェックが一向に進まないのです。
ここでも又とんでもないトラブルが起こっていたのです。なんと、アエロフロートに乗ろうと空港に駆け付けた、ロシア人が事も有ろうにパスポート・コントロールの窓口2か所のうちの1か所を 占拠してしまったのです。

こんな暴挙を許してはいけない、N商社の自動車部責任者が猛抗議をしてくれたのですが、多勢に無勢、全く聞き入れてくれませんでした。 結局、もう1か所の窓口に並んでパスポートチェックを受けるしか有りませんでした。
トルコの様に外国人の日本人の為に救援機まで出してくれる人達がいる一方、手続き窓口を占拠し、自分達だけが脱出出来れば他の人はどうでも良いと云う人達がいるのです。
私はこの時以来、ロシア人は大っ嫌いになりました。今も嫌いです。

こうした苦難を乗り越えて搭乗待合室にようやく辿り着いたのです、その時、爆弾かミサイルが爆発する様な「ドォーン」という音がしたのです。私はイラクからの爆撃が始まったと思い、ここ迄来て「だめかぁ!」と身体から力が抜けて行きました。 空港ビル内には悲鳴が上がり近くのテーブルの下に身を伏せるなど一時騒然となりましたが、爆発音は一回だけで、直ぐに場内アナウンスで子供と女性が搭乗ゲイトに案内され、皆ゲイトに走って行きました。

私はこの時、何で飛行機まで行ったか記憶に残っていないのです。タラップを駆け上がり機内に入り、座席に座って唯じっと出発を待ちました。機内はシーンと静まり返っていました。 暫くすると、滑走路に入り、そして滑走前のエンジンテストの音が「ゴー」と鳴り響き、滑走を始めました、ぐんぐんスピードを上げて、ふぁっと機体が浮き上がり離陸しました。
機内に歓声と拍手が起こりました。飛行機はぐんぐん高度を上げて行き、眼下にテヘランの明かりが小さくなって行くのが窓越しにちらっと 見えました。「ああ、助かるかも知れない」そう思いました。

トルコ航空の乗務員が語っていましたね”「飛行機に駆けて乗り込んでくる乗客を初めて見た」と。
そして、乗り込んでもシーンと静まった機内。これだけで乗客の緊張感、緊迫感が伝わってきます。

第1話 『早春のテヘランに赴く』以下執筆 沼田隼一氏  

1985年、この年はイラン市場の技術指導を担当してから7年目、5回目の技術指導でした。
この時は、日産自動車のイランでのKD工場サイパ社の増産と品質向上が目的で、日産の工場から増産指導技術者2名と品質向上技術指導者2名と、私が総合技術指導兼コーディネーターで5名のチームで臨みました。期間は3ヶ月で2月22日、日本を発ちドイツ・フランクフルト経由でイランに入りました。

イラン・テヘランに着いたのは2月25日早朝で、皆張り切ってやろうという気持ちが高まっていました。
私は1983年11月からこのプロジェクトの地盤固めをして来ていましたので、いよいよ本番という気持ちで燃えていました。私の気持ちを他の4名も受け止めてくれてチームとしての意気は盛り上がっていました。

早速現状把握そして具体的な実行計画を策定し、3月に入り具体的な技術指導をスタートしました。
ところが、3月6日突然イラクがイランの地方都市アフワズを爆撃したのです。3月9日出社しましたら工場は大騒ぎになっていました。初めのうちは何を言っているのか判りませんでしたが、よくよく聞いてみましたら、3月6日にイラクがイランの都市を爆撃したのでイランはきっと報復するだろうと言う事でした。
そして、3月9日彼らが言っていた通りイランはイラクのバスラを爆撃したのです。

でもこの時は、あんな短期間であれ程までの報復合戦になるとは夢にも思いませんでした。イラン・イラク戦争は1980年から始まっていましたが、これ迄は国境での地上戦だったので、まさかたったの22日で逃げ帰ることになる等とは思いもしませんでした。

第2話 『ミサイル飛来 混乱のるつぼと化したテヘラン』  

1985年のイランはイスラム革命後の混乱も落ち着きを見せ始め、市場として大きな期待を持たれ始めていました。
そこで、世界各国の多くの企業がイランに調査団や新事業獲得の為に協力関係商社、会社・営業部門、市場サービス部門などを送り込んでいました。 勿論日本からも、我々の様な現地KD工場技術指導技術者などをはじめ、多くの日本人も行っていたので、テヘランには日本人だけでも500人以上いて、日本人学校も有りました。
そんな中、イラン・イラク戦争が報復都市爆撃に拡大したのですからパニックになったのは当然だったのです。

3月6日イランのアフワズの受爆を境に段々大都市への報復爆撃に発展し、3月10日にはイランの第2の都市イスファハン等に爆撃が有り、何時テヘランに来てもおかしくないところまでエスカレートしていました。
日本大使館からは不要不急の人は国外に出る様にという通告が出されましたので、ヨーロッパ便に席が取れた人は次々国外に脱出して行きました。 地方に疎開する人もいました。

我々の協力商社のN商社も我々の為にテヘランに乗りいれているヨーロッパなどの航空会社のオープンチケットを3通から4通準備し、空席を捜して駆けずり回っていました。
しかし、どこの航空会社も自国民優先で空席がなかなか出ません。 数人分の空席が出ても、当然子供や女性を優先に割り当てるので我々にはなかなか回って来ません。

そうこうしている内に、3月12日とうとうテヘランに空爆が有ったのです。
然も一発は日本人が最も多く居住している、日本人学校の直ぐそばに着弾したのです。N商社の社宅もこの地区に有りました。
この時の模様を工場から来ていた技術者の一人は「ベッドに寝ていたら、ものすごい音がして気が付いたら床にいたが、何だかよく判らずにきょろきょろ辺りを見ましたが何も有りませんでした。何が何だか訳が判らず暫くボーッとしていたら、周りが大騒ぎになって来て、 やっと爆撃を受けた事が判った。自分はベッドからはじき飛ばされていたんです」と言っています。

ですからこの時は恐怖心も湧いて来なかったみたいですが、 時間が経つにつれて恐怖心がどんどん大きくなっていったのだと思います。 人間、想像を絶する事が起こった時は恐怖心も、悲しみも、喜びも直ぐには出て来ないと言う事だと思うんです。

今も世界各地で紛争があるのだが、そこには必ず日本人がいる。
永住している人もいるだろうし、多くはビジネスかもしれない。
例えばそこが”いつ自爆テロがおきるか分からない国”や”空襲がある国”である可能性も勿論ある。
戦後に生まれ育った私には正直そうした世界は実感が湧かない。しかし、この沼田さんの語る状況は当にそれだ。

前回までお伝えしたトルコ航空による日本人の救出の経緯は非常に感動的な出来事でしたが、この救出されたメンバーの一人 沼田凖一さんという方が、その経緯を救出者のサイドから語ると同時に、トルコとの友好、エルトゥールル事故の地元にふるさと納税を行うなどの活動をされております。
一連の流れをより掴むにはこのお話も是非ご紹介いたしたく、数度に分けて連載いたします。

なお、ご紹介する筆者にとってもこの沼田さんの語る内容は非常に切迫感溢れる、当に現場にいなければ分からない、当事者でなければ語れない貴重な体験談でした。思わず涙が滲んだり、本当に良かったと感情移入できる内容でした。
なおソースは「JUNPERIAL SHOP」の記事であります、転用のお礼を申し上げます。以下の文で私とありますのは、SHOPの責任者の方であります。
多分に経緯は重複いたしますが、ご容赦願います。


1985年3月17日、イラン・イラク戦争のさなか、サダム・フセイン元イラク大統領は、「48時間後、イラン上空を飛ぶすべての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。
当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、政府は救援機を出すことをためらっていました。他の国の航空会社は、自国民を優先するため、在留邦人は取り残されていったのです。
しかし、タイムリミット直前に、ついに救援機が。でもそれは、日本の航空機ではなく、トルコ航空でした。215名の日本人を乗せ、危機一髪のところでイランを脱出したのです。
でも、なぜトルコの航空機が日本人を救ってくれたのでしょう?

・・・時は遡ること95年前、1890年(明治23年)に、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号は、公式親善のため来日しました。しかし、帰国の際、現在の和歌山県串本沖で、台風により沈没してしまったのです。乗組員のうち581名が命を落とす大惨事となりましたが、村民たちの手厚い救護のおかげで、 69名が無事トルコに帰ることができました・・・

元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が、次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で 学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空が飛んだのです」

95年後のトルコの恩返しでした。
この2つの出来事は、100年近くも時を隔てていますが、人々の善意や感謝の心によって、しっかりと結びついているのです。

さて、上記のイラン・イラク戦争時、トルコ航空によって命を救われた日本人215名の内のお一人が、今回の連載企画で記事を書いて下さる沼田凖一さんです。
沼田さんは、自分たちを救ってくれたトルコ人に、そしてその大きなきっかけを作ってくれた串本町の人々に、いつも強い感謝の気持ちを抱いていらっしゃいます。
実は、私と知り合ったのも、沼田さんの“感謝による行動”が記事に載っていたのを、偶然インターネット上でみつけたのが、きっかけでした。

「1985年のイラン・イラク戦争時、トルコ政府が出した航空機によってイランから脱出した東京都羽村市の元会社員、沼田凖一さんが、『エルトゥールル号 の遭難時に献身的にトルコ人を助けた串本町の方々のおかげ』と感謝し、故郷や応援したい自治体に寄付する“ふるさと納税制度”で、同町に寄付をしていたこ とが分かった。」(紀伊民報より)

この記事を見て、どうしてもお話を聞いてみたくなった私は、串本町の役場にお願いして、沼田さんに連絡を取ることができました。それから今日まで、沼田さんにはあらゆる面でサポートして頂いています。今回のこの連載への執筆も、お忙しい中快く引き受けて下さいました。

このページは、“イラン・イラク戦争からの救出劇”と“エルトゥールル号の事故”を、まだ知らない方はもちろん、すでにご存じの方にも、詳しく知っていただこうと設けたものです。 沼田さんという、実際の体験者が記事を書くことで、当時の生々しい恐怖心や、溢れるような喜びなどが、リアルに伝えられることと思います。
一人でも多くの方がこの記事を読んで、トルコという国に関心を持ち、2国間の友好へとつながっていくことを心から願っています。
しかしテヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、その便で100名程度のトルコ人が帰国した。

残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのである。テヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、外国人である日本人に特別機を提供して救出したことになる。
「こんなこと、日本だったら許されるだろうか?」
 森永さんはそう考えると、まず怖れたのはトルコのマスコミの反応であった。

「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」と報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を行っても不思議ではない。ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。

森永さんは固唾を呑んで事態の推移を見守った。しかし、それらは全くの杞憂(きゆう)であった。なんと、誰も問題視しなかったのである。トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに森永さんは感銘を受けた。

武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。トルコ人は「あなたを独りにしておかない」という。困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。「武士の情け」と同じ心だろう。

森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。やがてそのチャンスがやってきた。
トルコ航空が、エアバスの長距離大型機を2機購入したいというのだが、その資金がなく15年もの延べ払いが必要であった。

当時、トルコのカントリー・リスクは高く、長期の信用供与をしてくれる企業はなかった。森永さんは「私自身が担保となり、支払い遅延が発生したら必ず取り立てる」と言って、関係者を説得し、ついにトルコ航空とのファイナンス・リース契約にこぎ着けた。

また、トルコ航空はイスタンブル=成田間の就航を強く望んでいたが、成田の発着枠は満杯であり交渉は一向に進展しなかった。

森永さんは運輸省の高官に説いた。「日本人の為に、これまでに救援機など出してくれた国が、他にあったでしょうか?」「それでもトルコ航空の要望を、他の国の航空会社と同じ扱いになさるのですか?」

「そうだったね。そんな事件があったね」と答えて、その高官は政府関係者を説得して回った。

こうしてトルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル=成田線に就航したのである。 成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。心配されていた15年のリース契約についても、トルコ航空は1度たりとも支払い遅延を起こすことなく完済した


平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。

そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行った。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのである。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。


日本とトルコは長く深い友好の歴史があるが、このトルコ航空による邦人救出は、その特筆すべき1頁である。

”トルコ世界一の親日国” 危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空 森永堯著(伊藤忠)明成社発行 より転記いたしました。

救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。この山を通過するとスヨルジョ機長はアナウンスを行った。

「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。
「トルコ領に入ったぞ!」「イランを脱出したぞ!」「やった! やった!」「万歳! 万歳!」

昨日からの一連の出来事が思い出され、いろいろな気持ちが一度に胸にあふれて、泣き出した人たちも多かった。殊に家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず喜びを爆発させていた。

トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て驚いた。

薄汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で現れたのである。

殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。お気の毒としか言い表せなかった。無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。

ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。

世界三大料理の一つと言われるトルコ料理を堪能した後でも、邦人たちは「店先に並んでいる生カキが美味しそう」と言い出した。森永さんは、もう暖かくなってきているので、生で食べてお腹でも壊したら大変と止めた。

森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、皆が美味しそうに口にしているではないか。彼らは言った。

「こんな幸せはない。我々は地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。たとえコレラになっても、今までのつらい思いを思えば、ずっと幸せなのだ」
幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日全員無事に日本に向かった。

機長から「WELCOME TO TURKEY」というアナウンスがあったらしい。
イランの国境を越えれば被害にあう事はない、ここで一挙に安堵したのであろう。涙を流す人も多かったという。
更にホテルで豪華料理、呑んだ酒の量も並でなかったらしい。皆さんの安心した状況がよく分かる。
当時、東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さんは、こう回想する。
昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました。
そこにトルコ航空機が救援に来るという知らせが大使館から入った。

当日のテヘランの飛行場は脱出しようとするイラン人、外国人が一杯でしたので、いっせいに何千人という人が飛行場に駆けつけ、トルコ航空のカウンターの前にも長蛇の列が出来ていました。急なことだったので、着の身着のままの人も多かったのです。

それまで、どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否していたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、本当に搭乗できるのか疑心暗鬼であった。
最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると歓声があがった。懸念が安心に変わると、後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ順番が来るのを待った。

特に家族連れの日本人は実際に搭乗券を手にした時、「これで脱出できる」と妻子を護る夫として親としての責任を果たせたので、安堵の気持ちに包まれた。

救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種であった。緊急の救援要請にも関わらず、こんな大型機をやりくりしてくれたのである。
客室乗務員のキョプルルさんは、出発時の状況をこう語っている。

エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。
私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に早くお客さまを乗せ一刻も早く出発しなければならないということを強く意識しました。

乗客の方々は皆、恐怖を感じながらもテヘランを脱出できるという喜びに溢れていました。私たちもその感情を共有することができました。私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました。

飛行機がテヘランに到着してから、217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。

日本人乗客らは、緊急の救援機なので女性乗務員はいないだろうとか、食事やまして酒などなくとも仕方ないと思い込んでいた。
ところが、客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性がにこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。

イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかったという。それだけ日本人乗客等は開放感に浸っていたのであろう。

飛行機へ駆け込んでくる日本人、これだけでどれほど恐怖に怯えていたのかが分かる。
イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかった・・・・・これだけで安堵の気持ちが分かる。