世界仰天ニュース!(日本テレビ)でアラル海のことがやっていました。

エコスペシャル パート2ということで「消える巨大湖」という題名でした。


下記は世界仰天ニュースHpからの抜粋です。


カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがる世界で4番目に巨大な湖、アラル海その大きさは、琵琶湖が100個、すっぽり入るほど水は、天山山脈、パミール高原から流れ出る2つの大河。アムダリア川、シルダリア川から流れ込む。流出する河川は無く、砂漠気候であるこの地で蒸発する水と、流れ込む水の量が均衡を保ち、6千万年以上に渡り、この地を潤してきた古代湖。カスピ海などと同じく塩湖で、漁師達の主な獲物はチョウザメ。沿岸の町にはその加工工場が多く、ソ連が世界に誇る高級食材、キャビアに加工される。この為、社会主義のソ連にあって、アラル海沿岸の漁師たちは、安定した収入を得られていた。

旧ソビエト連邦、アラリスク。人口およそ9万人で賑わうアラル海沿岸で最大の港町。しかし1962年頃から、漁師たちは最近、湖の水が減っている異変に気付き始めていた。数年後、漁師たちの不安は現実となった。湖の水は減り続け、かつてにぎわっていた港にはすっかり水が無くなっていた。時にはたった一晩で港から数百メートルも水際が遠ざかることもあったという。そのため、逃げ遅れた漁船が無惨にも砂地に取り残されてしまった。その後も、アラル海の水は、もとに戻るどころか、減り続けた。大型の漁船が使えなくなった漁師達は、手こぎの小型船を港から数キロメートル離れた湖まで運び漁をすることを強いられた。日に日に遠ざかる水際、漁は、過酷を極めた。そのため、年間2.5万トンあった一帯の漁獲高が激減。周辺の魚加工工場も、大ダメージを受けていた。町に19カ所あった魚加工工場のうち、1970年半ばまでには、18カ所が閉鎖に追い込まれた。漁業で成り立っていた町には、失業者が溢れた。町を去る者も後を絶たず、周辺の小さな漁村は、ゴーストタウンと化すところも。一体なぜ、湖は消えたのか?それには、信じられないワケがあった。

水が減り始める20年程前。指導者スターリンによる、ある計画が実行された。それは、「自然改造計画」。気候の厳しい砂漠の地を、見事な農業用地に変え、西側諸国に、国としての力を見せつけるための政策だった。そこで注目されたのが、アラル海に流れ込むアムダリア川とシルダリア川。この豊富な水を利用し、世界最大の綿花地帯」を作ることを計画したのだ。灌漑用水がいくつも建設され、川の周辺は、次々と巨大な綿花栽培の地に。わずか数年で、生産量は2倍、3倍と増え、計画は成功した。しかし、予想外のことが起きた。灌漑用水に大量の水を奪われ、両河川の水量が激減。湖に流れ込む水量は、どんどん減っていった。砂漠地帯の湖は急激な勢いで、小さくなっていったのである。そんな事はまったく知らされていない漁師や住民たちはただ、困惑するばかりだった。このアラル海の水の減少を今、食い止めなければ、漁業がダメになるばかりではなく、塩分濃度がどんどんあがって、生物のまったく棲めない、死の海になってしまう・・・。そうなってからではもう遅いと主張する者もいたが、ソ連の力を見せ付けてきた綿花地帯を葬ることはできない世界への面子がたたないと、結局、旧ソ連は、このアラル海の危機に、何の対策も講じなかった。

その後も縮小を続ける湖。1980年代になると、町では原因不明の病気により、つぎつぎと死んでいった。そのほとんどは、抵抗力の弱い老人や赤ん坊。1歳未満の乳児の死亡率は、年々増え続け、なんと10人に1人の割合にまで達していた。その主な原因と言われているのが、かつて湖だった場所に、大量に堆積している“塩”塩湖である湖が干上がり、塩分濃度がますます高くなっていった。そのため、水に溶け切れなかった塩が、大量に堆積しはじめた。さらに一帯の気候も変化。雨が降らないことが多くなった。突風が頻発するようになり、塩と砂が、街に降り注いだ。湖があった頃は、蒸発した水が上昇気流に乗って雲を作り、沿岸の街に雨を降らせ比較的、おだやかな気候となっていた。ところが、湖が無くなってからは、雨が減り、気温の差は激しくなり、砂嵐が吹き荒れた。その砂により、気管支炎や食道ガン患者が急増。また、塩を吸い込むことにより、結石や腎臓病が蔓延。なんとその数は、アラル海沿岸に暮らす全住人の8割にも及んだ。

まさに最悪の環境破壊…1991年ソビエト連邦崩壊。 湖が小さくなり始めてからすでに30年。この時ようやく、アラル海の危機が世界に知れ渡ったのである。アラル海は「静かなるチェルノブイリ」と呼ばれていた。そのアラル海沿岸の町に、仰天スタッフが飛んだ。日本から韓国経由でカザフスタン最大の都市、アルマトイへ。そこからさらに小型飛行機で、クズィルオルダという町へ。ここからアラル海までは500キロの道のりを車で移動、地平線の見える砂漠の一本道を、ひたすら車を走らせること7時間、ようやくアラル海沿岸の町へ。最盛期には人口9万人だった町も現在は3分の1以下に減り、町は閑散としていた。かつて漁業で栄えた港に行くと・・・そこには漁船が無造作に置かれていた。完全に水は干上がり、湖は見えない。そこで、港町のアラリスクから 現在の水際まで飛んでみるとかつて湖だった場所には、全く水際を見ることはできない。眼下にあるのは、延々と続く砂漠。かつて、豊かな水があった場所とは到底思えない。ようやく湖が見えてきた。かつての港からの距離、およそ50キロ。水深は浅く見えるここもいずれ、砂漠と化してしまうのか。

かつて世界第4位の大きさを誇った湖は、50年間縮小し続け、1つの湖だったアラル海は、北側の小アラル海と、南側の大アラル海に分断された。さらに、大アラル海も東と西に分かれている。仰天スタッフは上空から驚くべき光景を見た!それは黒いかたまり。よく見ると大きな船だった。砂漠の中に錆びた船。その姿は、ここが湖だった事を静かに訴えているようにも見える。水を失った港は、えぐられたようになっている。ここに水深10メートルの港があったとは…。塩分濃度は、6倍以上にもなり、チョウザメは完全に死滅、生息できる魚は、塩分に強いごく限られたものだけとなった。漁師達は自宅から船を車に積み込み、遠く離れてしまった湖まで漁に出かけるという生活を続けていた。湖の底だった所は、今は砂漠と化したでこぼこ道、僅かに獲れる魚を求め、時には、100キロ以上離れた場所まで向かう。水際からは、小型の船で、漁に出る。湖の縮少前には、チョウザメのほか、25種類以上の魚が獲れていた。今ではカレイの一種のカンバラ、スズキの一種のスダックなど、ごく限られた魚が獲れるのみとなった。塩分に強い魚の稚魚の放流により、最近では少しではあるが魚が獲れるという。少しでも効率よくするため、水際にテントを建て、寝泊りしながらの漁。1ヶ月に稼げるお金は、僅か5万円ほどそれでも彼らに、他の道はない。町の至る所にあった魚屋も、現在では1軒のみ。アラル海で穫れる魚が少ないため、新鮮な魚はごくわずかしか並んでいない。ほとんどは、他の地域でとれた魚が干物として加工され売られていた。

一方、湖の縮小は、井戸が枯れるなど 生活用水にも深刻な影響を与えていた。そのため、数百キロ離れた場所から運ばれてくる貴重な水を、月に一度買うというシステムになっている。各家庭には、水を貯蔵するタンクが設置されていて少しずつ生活用水として使っている。取材中、町に突風が吹き荒れた巻き上がる砂には、白いものが…それはまぎれもなく…塩。突風が吹くたび、街に拭きだまった塩が舞い上がる。病院には今も、思い病気を抱えた人たちが多く入院している。それでも生まれ育ったこの町を離れずにいる。

1992年日本を含む世界各国の援助により、アラル海の再生計画が始まった。打ち出された計画は小アラル海と大アラル海との間に堤防を造り、シルダリア川から流れ込む水を、大アラル海に流出しないようにし、小アラル海だけを再生させるというもの。これにより、現在、小アラル海は 少しずつ水位が回復している。しかし、大アラル海はとんでもない事に小アラル海と大アラル海との間に堤防を造り、現在、少しずつ水位が回復している小アラル海。しかし、大アラル海のほうには、依然、援助の手は回っていない。このままでは、あと2年で大アラル海は、全に姿を消すと言われている。