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荒木村重研究会ブログ

荒木村重研究会の手作りブログ

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
例会 、歴史探訪 、講演会、 勉強会 、イベント 、 会報『村重』の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

戦国時代の北河原三河守(きたがわら みかわのかみ)は、伊丹城主である伊丹氏に仕える有力な家臣として活動しました。その後、主家が滅亡する過程で、台頭してきた荒木村重との関わりを深めていったことが特徴です。
主な活躍や関わりは以下の通りです。

1. 伊丹氏の有力家臣としての活動

北河原三河守は、伊丹氏の拠点である伊丹城(兵庫県伊丹市)の守備を担う一族として、現在の伊丹市北河原地区を本拠地としていました。伊丹氏は戦国時代、細川氏や三好氏といった時の実力者に従いながら摂津国で勢力を維持しており、北河原氏もその軍事行動を支えました。 

2. 荒木村重の正室 北河原三河守の娘

荒木村重と北河原三河守の娘が結婚したきっかけは、池田勝正と伊丹親興が、永禄七年(1564年)か永禄八年(1565年)以前に、同じ三好長慶方として和睦、又は同盟しました。その人質として、伊丹親興家臣の北河原三河守の娘が池田勝正の家臣だった荒木村重に嫁入りしました。そして二人の間に生まれたのが荒木村次です。したがって村次の出生年は永禄七年(1564年)か永禄八年(1565年)以前と考えられます※1参照。
天正六年(1578年)十月有岡城にいた村重が信長に謀反を起こした時、村次は尼崎城主でしたが、このとき数えで十四歳か十五歳だったのです。


勢力が拮抗、あるいは協調する際、有力家臣同士の婚姻を人質兼絆として行うのは当時の常套手段です。


(注:村次に出生年について前記事を修正しました)

3. 有岡城の戦いとその後

北河原氏は、村重が信長に対して反旗を翻した「有岡城の戦い」(1578年〜1579年)では、伊丹城(有岡城)に籠城して戦いました。有岡城が落城した後、北河原氏は武士としての身分を捨て、北河原の地で酒造業(北河原一文字屋)を営むようになったと伝えられています。これが現代まで続く伊丹の酒造文化の礎の一つとなりました。 


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※1『寛永諸家系図伝』の荒木村重系図によれば、嫡男村次の次男の荒木左馬助村常の生年は慶長四年(1599年)、そして村常が三歳か四歳の時に父の村次が三十八歳で病死(『寛永諸家系図伝』)しました(慶長六年(1601年)か慶長七年(1602年))。

このことから、村次の生年は、1564年あるいは1565年となり、村重と北河原三河守の娘の結婚時期と符号します。(歳は数え)