宿にパスポートを一時預かり

　映画「星の旅人たち」ではピレネー峠越えで、息子が亡くなるという設定から物語が始まり、息子の意志を継いで、父がサンティアゴ大寺院へ旅立つ。

　私はその日遠足気分で初夏快晴のピレネー峠に向かって歩いていた。道々でフンコロガシや羊の群れと戯れながら峠に着いた。しかし下りに入った途端、激しい雨に見舞われた。「雨具だ。雨具だ」と叫んで、リュックから雨具を引っ張り出した頃には濡れ鼠になっていた。そして周りから巡礼者の姿はすっかり消えていた。

羊の群れ　峠はこんなに晴れていた

目的地ロンジェスバージェスに向かって独りとぼとぼと歩いた。ようやく到着したロンジェスの玄関口にペンションホテルが目に入った。さあ、と駆け込んだ。

　女主人に料金50ユーロと言われ、素直に支払いを済ませた。さらに「パスポートを預かりたい」と言われ、「エッ? 」と内心不満に感じつつ応じた。翌朝、朝食を取って、「パスポートを返してほしい」と頼んだら、女主人はそんなことはすっかり忘れていたらしく、奥へ慌てて取りに行った。

La Posada 小さなお家とか?

　ある日、「たえず書く人」辻邦生と暮らして(著者辻佐保子)を拾い読みした折、夫婦はヨーロッパ中を旅していることを知った。「数日かかりでカタロニアの教会めぐりをしたときは、途中でガソリン切れになったり、ほかに一人も宿泊客のいないお化け屋敷のようなホテルに深夜に到着。翌朝パスポートを返してもらうのを忘れて半日がかりで戻ったりと、冒険の連続だった」と綴っている。

この下りを読んで以来、「パスポートは宿に一時徴収されることもあるんだ」と学んだ。旦那は作家としてはつとに有名だが、映画マニアでもある。奥さまはこの本で初めて知った。愛知県出身の才媛で名古屋大学とお茶の水大学の教授もなさった美術史家である。旅慣れたご夫婦が、二人してパスポートを忘れたと知ると、凡人もホッとさせられた。

フランスの美術館で、クレジットカードの一時預かりを求められたときは、用心のためかと理解した。しかしパスポートはツアーガイドからいつも肌身離さずと教えられていたので、違和感がいつまでも残っていたが、この文章に出合って氷解した。

さて、ロンジェスではアルベルゲと呼称される安いお宿に泊まることはできなかったが、この日の宿泊客は私一人。広い一室は二階に小部屋付きで階段を上がれば、大きなベッドが眼下に見下ろせる。濡れた衣服を二階手すりに思う存分干して、気分爽快になった。

しかし二階の小部屋は何をする所だろう? トランプ遊び? はて?　