本願寺 羅生門 

 

 10月3日は台風の影響で終日の雨。その夕刻、友人Oさんと東本願寺御影堂の階段で一休みし、正面に対峙する御影堂門を眺めていた。正面21m、高さ27mで、木造建築の山門としては世界最大級との由。

 

   すると都大路の羅生門が自然に思い浮かんだ。映画「羅生門」は二人の男が山門で途方にくれていたなあ、と。映画では、半壊した羅生門に土砂降りの雨が降り注いでいた。木こりと坊さんが雨宿りをしているところへ、泥水を跳ねてバシャバシャと小悪党の男がやって来る。物語の始まりだ。木こりは3日前に起きた不思議な話を語り出す。

よく、巨大なセットを造ったと黒沢監督に感服

 

   一人の武士が美しい女房を馬に乗せ山道を行く。そこで昼寝をしていた盗賊が女房に目を奪われ、武士を縛り上げて、女を凌辱してしまう。その後、木こりが武士の死骸を見つけ、お役人に届け出る。

   白州に引き出された盗賊は女もその気になったので、武士を殺める結果になったと一部始終を語る。ところが白州で女房はしおらしく我が身に起きた不幸を語る。さらに死人に口なしというが、そこは映画。巫女が呼ばれ、巫女に乗り移った武士が仔細を語る。「私は女の取り合いの決闘死ではなく、女房の乱心に絶望して自ら胸に刀を刺したのだ」と語る。

 

   三人とも自分勝手な話ばかりをお役人に並べ立てる。誰も「仏様など知ったことじゃない」という厄介な映画だ。映画「羅生門」は1950年公開され、クロサワの名を世界に知らせ、世界の映画賞を総なめにした。

   映画「処女の泉」は幼い娘が馬で教会へ。全編が神との対話。一方、黒沢監督は人間のエゴを引きずり出して、似ているような舞台設定からまったく異なるストーリーを展開させる。

 

   芥川龍之介の小説「羅生門」には、確か「老婆が二階に住んでいたよなあ」。そんなことを思いつつ、平安京の南端・朱雀門に建てられた羅生門はこの御影堂門のように大きかったに違いない。ただし往時は朱塗りであった。

 

   千年後の私は頭で真っ赤な色に塗り変えて、Oさんに一言「羅生門を見ているみたいだね」と言葉を掛けた。私も映画の木こりやお坊さんのように途方に暮れている。

   振り返れば、ここも外人さんでいっぱい。大座敷で記念撮影に興じている。私がかつてヨーロッパの大聖堂でフォトを楽しんでいる姿と変わらない光景だ。

全景