言葉はいつも思いにたりない。演出家の鴻上尚史さんの言葉だ。
若い頃、あふれる思いは言葉にできず、ただただ
「なんで、わかってくれないんだろう。わかってくれよ。」
と、人に要求するばかりだった。何年か過ぎてみれば、なんというか、庄司薫さんの小説からの台詞を拝借すれば、
「恥ずかしくて恥ずかしくて、『わぁー!』と大声で叫んで舌噛んで死んじゃいたい!」
となる。それもまた何年かすれば、恥ずかしい気持ちも、「みんなそんなもんだよね。」と恥ずかしい気持ちと折り合いをつけられるようになる。でも、その途中でこじらせてしまうと、
「恥の多い生涯を歩んできました。」
と何か「恥は罪」のような意識に苛まれて、私みたいな人間は・・・、と内に内に落ち込んでいってしまう。
いいか、罪ってのは他人に損害を与えることであって、恥なんてのは自分自身の心の中のことなんだから、笑い話になりこそすれ他人は何にも気にしてないんだからな。変な美学を作り上げて死んじまうことの方が罪なんだからな。死ぬなよ青少年!
ただね、今でも思っていることの半分も言葉にできていないっていう気持ちがある反面、自分が紡いだことばだったり、人が返してくれた言葉から、新たな思いやら言葉が紡ぎだされることもある。
つまり、何が言いたいのかっていうと「言葉」と「思い」を、自分の外と内って考えるから相対する概念のように思ってしまうけど、自分を真ん中に置いた両輪なんだって考えたら、その両方があるから私自身は遠くに進めるのかもしれない。そして、その二つは自分のうちでもなければ外でもない。
なんかねぇ。こんなことを書いていると般若心経やらウパニシャッド哲学の梵我一如やらで言ってることが今更ながら自分にすっと入って来てることに気が付く。お経は単純に唱えるものではなくて意味を考えた方がいい。人生の経験を積めば積むほど、なるほどって深く突き刺さるからね。
宗教としての仏教は形式だけれど、経を現代語訳したものを読んでみると哲学だっていうことがよくわかる。昔の日本では西洋の哲学は入ってこなかったから、一面的な理解しかできなかったのかもしれないけれど、ギリシャ哲学からの西洋の哲学の視点から仏教を見ると、面白いったらない。キリスト教以降は二元論が多くなってきたんだろうけど、ギリシャ哲学は二元論ではないしね。おそらくは善と悪なんて、頭軽すぎるんじゃないの?って思ってたんじゃないかな。
今、コロナ騒動で二元論や功利主義が急速に輝きを失っている。しかしながら頭の古い人たちの多くも第一線でスタープレーヤーだったりするから、気が付いている人も今の価値観が都合の良い人たちに足元すくわれるから、充分に気を付けてね。
これからは、少しずつ新しい時代の種を見つけたら、書いていきたいと思います。
