Ⅰ 怠惰と価値

 

最近は今まで抑圧されていた何かが急に内臓を突き破り骨を砕き割り皮膚を飛び出して急に噴き出てしまった人間のそれのように、昨年はあれほどまで神経質になって必ず成し遂げられていたやらなければならないシングスをやらずひたすらパソコンに向かいただインターネットサーフィンをし続ける怠惰的生活を送っている。そのやらなければならない事は果たして私に必要なのか、そうではないのかという事を少しでも考えると、「やるべきである」という答え一択なのだけれど私はそれをやろうとしないしやりたくもない。

 そのやらなければならないことというのは言うなれば課題である。先日のテストでは五教科すべてにワークが課題として指定され、今日で提出期限は一週間も過ぎているのにも拘わらず私は一つも提出を行うことなく貴重な祝日を終えようとしている。悪いとは思っているのだけれど私がそれをやらないことに関して誰にも一切の迷惑をかけていないしすべて自己責任であるのだから結局出さなくても良いやどうにでもなれとなって、朝を迎えるのだ。朝六時三十分を指す時計を見て私は落ち込む。今日も十分に課題を出せないのだ、私は課題を出さなければならない、出す義務がある、出す権利を与えられている、他のクラスメイトも出している、自分が苦手なあの先生も学生時代にはしっかりと課題を提出したのだろうし、自分の大好きなあの娘もしっかりと課題を提出しているのだろう、私は何故これほどまで駄目になってしまったのだ?と考えて、もう一度寝るのだ。一応のところ、私には「生徒副会長」という役職が伴っている。だから私の課題を提出しないムーブを見てクラスメイトは言う。先生は言う。

「生徒副会長なのだからしっかりとしろ」

と。至極当然なこの言葉を受けて私はその時だけ真面目そうに「はい」と返事をする。

この光景を味わった数のそれは手指で数えようとしてもあまりの数の多さに片手を超え両手を超えて足に到達し、左足指、もしや右足指にも到達してしまうかもしれないという勢いである。

 課題を出さないということはもちろんテスト勉強をしないということでもある。

生徒会の仲間と担当のスーパーフレンドリーな優しい先生との進路に関する会話に参加した私はこの間の三連休で八時間勉強した、だけれど結果は思うようにはいかなかったという書記の女の子の話を聞いた。私はものすごくいたたまれない気持ちになった。私の勉強時間は0時間。寝て起きてインターネットを見て寝て起きている生活を送っている私に対して、この長身で美人でまじめで運動神経の良い素晴らしい彼女は精一杯努力をしているのだった。彼女は私の見ていない場所で勉学に励み私の見ていない場所でバスケットボールをしているのだ。絶えまぬ努力とその美貌に私は尊敬を抱く。そして私は私自身を卑下する選択しか選べないようになっていくのだ。

 彼女は素晴らしい。とてつもなく素晴らしい人間だ。なのに彼女は私より下の書記という役職を与えられている。圧倒的役不足なのだ。本来ならば、彼女が副会長となり私はさえない生徒であるべきなのだ。

 彼女は放課後の生徒会室で私に言った。「宿題を出せば尊敬できるのになあ・・・・」と。

その言葉はありえないほど真っ当であった。その時私は苦笑いの表情を見せていたが、彼女は圧倒的に正しかった。この世で一番正しいのは彼女だと今になって思う。周りから非常に愛されている彼女は、努力し続けている彼女は、ほんとうに、ほんとうに正しくてすばらしい人間だ。

 だとするのならば私は何なのだろうか。私はガムの嚙み殻のようなものかもしれない。味がなくなってしまえば単なるごみで、小便器に捨てようものなら水に流せず、道端にペッと捨てようものなら靴の裏に引っ付いたまま離れることを知らず、最悪の気分のまま爪でそれを剥がして捨ててしまう。だが美味しいのだから在るもの。そういうものなのかもしれない。

 ここまで私は自己を卑下するような文を書き連ねたのだけれども、ここで敢えて「美味しいのだから在るもの」という表現を使ったのは、人間には絶対の価値があると信じてやまないからである。彼女は言葉にするのも必要のないくらいの、素晴らしい価値を持っている。

 

でも私は、課題は提出しないけれどもこうして文章を書き連ねることができる、自分の考えを誰かに伝えることができる、教室でふざけてみせて、周りの人たちを笑顔にさせることができる。それを彼女も持っているのは承知の上であるからそれはアイデンティティではないけれど、それはそれで自分は大きな価値を持っていると私は信じている。

 どんなにボロボロであっても汚らわしいものであっても、そこに在るということは価値があるのだ。価値がなければ存在できない。必要がないのだから、在る意味がない。在る意味がないということは「死」なのか、と言われたら私はそれを断固否定するであろう。死は価値があるからこそ行われるのだと思う。価値があるからこそ在る権利があるし、死が訪れる。私が生徒副会長である価値は恐らくないであろう。でも、この世に生を受けて実際にここに在るのだから、存在価値はあるのだ。私は完全なる駄目にはなれないし、そもそも完全なる駄目なんて在る限り存在しないのだろう。そう思う。強く、私は、そう思う。

 

 

Ⅱ 自分大好き人間

 

 私は自分が大好きだ。自分が大好きであるからこそ自分を卑下する。自分を卑下している私は最高にかっこいいのだ。自己陶酔、それはありえなく上等なものだ。自分に酔っているから私は自分自身をどこかで保つことができる。自分には存在する意味などない、早く死んだほうが良いと思う日があっても次の日には自分が愛おしく感じてしまうのは、私の中の自己陶酔が自分を正常な状態に引き戻してくれるからだ。自分が好きだから私は面白いことが言えるしそれでクラスメイトを笑わせることができる。その笑い顔を見て私の中の自己陶酔君はすくすくとわんぱくに育っていくのだ。私は優しい人間であると思う。私には苦手な人はいるけれど、はっきりと嫌いな人はいない。その苦手な人もほかの人の見ていないところでは愛情に溢れているはずであるからだ。他人を否定し、見下す人間でも人が見ていないところでは愛にあふれているはずだと思う。その面を想像できるからこそ、私は人をあまり嫌いにはなれない。結局みんな良い人なのだ。私が課題を提出しなかったとしても、あまり使えなくても許してくれる。最大限のやさしさで接してくれる。そんな人間に私は恵まれている。いくら感謝を言っても言い足りないと思う。だから私は私のことを最大限に好きになれる。自己を卑下することも、それは自分に対する愛情の一種であると思う。

 自分が好きな私は時折妄想にふける。今日の妄想は「自分が学年一位を取り、なぜそれができたのかという勉強法をインスタグラムのリールで紹介し学校のみんなから多大なる名声と尊敬を得る」という妄想であった。

 

 私は学年元40位台。宿題も出さない。そんな私が学年一位まで上り詰めた。その勉強

法をお教えしたいと思う。

 まず、授業は聞かないということだ。授業はやろうと思えば十分で教えることのできる内容を、長々と五十分も使って教えている。こんなスタイルでは頭がどんどん悪くなっていくばかりだ。だから授業はあまり聞くな。聞いても時間の無駄なんだ。板書さえ見てればそれだけでいい。授業は聞かずに、「トライ イット」を見てそれだけで学習しな。

 次に、ノートの取り方を教えようと思う。板書の半分は教科書に書いてあることをそっくりそのまま模倣しただけの代物だ。写すだけ時間の無駄だ。板書を写すよりも、必要なのは付箋だ。付箋を大量に買い、板書に書かれている順に番号を書いて教科書の該当する箇所に張り付けろ。たまに板書にしか書いていないところがある。それはテストに出るからとりあえずノートに書いておけ。簡潔にな。

 次はテスト勉強のやり方だ。一冊ノートを用意しろ。いいか、テストっちゅうのは暗記ゲーだ。そのノートに、覚えたいことを書きなぐれ。だが、そっくりそのまま書きなぐるだけでは駄目だ。音にリズムをつけろ。例えば「名 字 石(めいじいし) が起こした革命明治維新」とかな。まったく関係なくていいぜ。とりあえず覚えられればそれでいいんだ。それをひたすら書きなぐってしまえ。それですべてが覚えられる。

あとスーパー苦手教科があるってやつも多いだろう。それは捨てろ。他の4教科では絶対に稼げるぞ。やり方がわからねえようだったらコメント欄かDMに来い。動画で返答するよ。

 

という内容の動画を私は投稿する。そして次の日から私は超人気者。今までスマホを買ってもらえなかった生徒が俺の動画を見たいといってスマホを親に要求するくらいの人気者である。

という妄想を今日本気でしていた。あとは自分が芥川賞を受賞するという妄想をしていた。

この妄想もすべて、自分が大好きであるからこそできることである。そして自分が大好きなのは、他の優しい皆様のおかげである。本当にありがたいことだ。

 

 

Ⅲ あとがき

私は課題を出さない。出さないけれども私は自分のことが大好きであるし、自分には絶対の素晴らしい価値があると信じている。

私には価値があるから、今日はその価値をもう少し上昇させるためにもう少し課題を頑張ってみようとトライしてみることとする。

時刻は0時を回った。みんなはこの時間を深夜と呼んでいるだろう。たいていの人はもう寝床についただろう。だとしても私は課題をする。今からでも遅くないだろう。たぶんそう、きっとそうだ。私の中の自己陶酔君が成長を続ける限り私はそれを少しだけ努力するということに使ってみようかと考えている。私は彼女のように最高に素晴らしい人間にはなれないのかもしれない。けれど、私は最高だ。なぜなら私には価値がある。