カサンドラな日常 -4ページ目

カサンドラな日常

私の夫はASDです。
分かり合えない生活ながら、30年。最近、私のような人にカサンドラ症候群という名前がある事を知りました。
自分だけじゃ無い。
まだまだ続くカサンドラな日々を、楽しみながら過ごしたいと思います。

最近感じる事。
みんな同じが良い、違いを感じる事をネガティブな事だと考えるのを、辞めたらどうだろう。

ラーケーションのニュースで、旅行に行けない子がかわいそう。だから導入には反対だという意見が。

そうかな?

行ける人もいれば行けない人もいる。行かない人も。お金がある、無い、成績が良い、勉強は苦手、運動神経が良い、運動は苦手、おしゃべり、おとなしい、障害がある、無い。
違いは何処にでも、誰にでもあって、それが原因で不公平な事が起きたら、そこを問題にすれば良い。
旅行に行けない人は可哀想。余計なお世話だ。その時事情があって、もしかしたら旅行に行きたくても行けないとする。家族旅行に行っている人を羨ましいと思うかもしれない。でも、それは経験して良い事だと思う。いいなぁ、私も行きたかったなぁ。よし、好きなところに行ける大人になろうと思ったら、それは良い事だし、可哀想じゃ無い。
生きていれば、違いなんて毎日のように感じる。みんな違うんだから、気にしなければ良い。羨ましいならエネルギーにすれば良い。

障害のある方に、健常者と同じ事をさせて、できたら涙を流して喜ぶ番組がある。私も涙を流して観ていた時期が長くあった。
でも、最近は少し違和感がある。
不自由な事がある方が、少しでも不自由無く、当たり前に生活する為に、何が必要かを報じていない。
海外ドラマには、学園物のシーンに、普通に車椅子の生徒が登場する。日常的に、その時手を貸せる友達が当たり前のように手助けしながら、普通の学校生活が描かれている。職場のシーンでも同じだ。
意図的なのか、本当に日常なのかは分からないけれど、少なくとも可哀想とは感じない。優劣はそこには無い。
健常者ができる事をやってみて、良かったでしょう?という傲慢さは感じない。

みんな同じは、そろそろ辞めたらいいんじゃないかな。