悪気がない | 毒を持つ人

まだ善悪の判断がつかない小さな子どもが悪さをした時、親は叱ります。

周りの大人はそれを見て、親を宥め、子どもを庇い、こう言います。

「まあまあ、許してあげなさい。悪気はなかったのだから」


「悪気はなかった」


モラさんはしょっちゅう、こう言っていました。

悪気はなかった。だから、わたしは責められるべきではない。

悪意はなかった。だから、これは罪にはならない。


ゆえに、わたしは責められるべきではない。



悪気(悪意)がないというのは、悪気があるより、最悪では?



知らずに悪さをしてしまった子どものように、当の本人に

善悪の区別がついておらず、自分の行動の何が悪いのか

注意されても自省出来ず、因果関係が分からず、

自分の行動とその結果が、大人になっても全然、彼らには

分かっていないということだからです。


悪気はないのに問題が起こってしまった。

問題が起こった限りは、誰かが悪いということになる。それは誰?

悪気はなかったのだから、自分ではない。

自分に悪気はないのに、お前が悪いと言われている。

つまり、相手が悪いのだ。

問題があるのは相手の方だ!


このキテレツな論法が永遠に通用してしまうのです。


悪気はなかったんだけどネ。

そんな行き違いは日常において、よくあります。

人間関係は、曖昧な部分を、譲ったり、許容したり、想像して、

ほころびては繕い、穴が空いては傷つきしながら、なるべくならば自分にも

人にも不快や迷惑がないように、だいたいのあたりを共有し、何とかやって生きています。


ある頃から、モラさんは、そのあたりが全く分からない人なのでは?

そう思うようになりました。

一般的な倫理観を口にして見栄をきることは大好きですから、誰よりも

分かっているようなパフォーマンスはするのですが、それは外面・外向けの

メッキであり、相手の立場に立って想像するとか、デリカシーと呼ばれる

明文化しにくいケースバイケースの対・対人におけるもっとも大切な気遣い、

相手の立場にたって考えてみる能力については、根本的に具わっていないのか、

分かっていないのではないかと。


”こうすると常識人でいい人に見えますよ”、ということはやるのですが、

台本をなぞっているみたいで、心がこもらず、芝居っぽい。



先天性の脳障害ならば、気の毒です。

障害を抱えて大人になり、知らずに人を傷つけたことで、毎回本人が

深く傷つくならば、それはかわいそうですが、

残念ながらモラさんは自分が傷つく一方、傷つけられた! と触れまわり、

世間の「操作」に乗り出す、アグレッシブなボーダーです。


人が大人になるのには、自分自身が傷つき、苦しむことが、欠かせません。

境界例が迷惑なのは、問題が本人のところでは止まらず、本人が

抱えるべきことを、他人に向かって投げつけるからなのだそうです。


モラさんは、

相手がわたしを傷つけた!!

ことしか理解しません。そう理解します。

ボーダーは、自分が悪いという事実が、我慢出来ません。

たとえ中傷ストーカーをしていても、自分が被害者だと、完全に脳内変換します。


「いい加減にしろ」と言われた。傷ついた傷ついた。

人を傷つけることは悪いことだ。

つまり、相手が悪いのだ。


この三段活用。


本人が単体で動いている分にはまだ対処できるのですが、

「無関係な周囲を取り込んで味方につけること」

が混じるのがボーダーです。

どうしてあんなに、自分の問題をダダ漏れに誰かれかまわずに喋るんだろうと

ふしぎに思っていましたが、どうやらモラさんは、自分の行動の理由を、理由づけし、

それを自分以外の他者が認めて【公認】しないと、【正当性】がないと、

強迫的に思っているみたいなのです。

言い訳が多く、一般的な倫理観をオウムのように口にするのも

そのせいなのでしょうか。


”他人の承認が不可欠”

”見捨てられ不安感”


モラさんは、いつも人気者であるかのようにふるまっていました。

自分には、さも大勢の賛同者がいるかのように、発言していました。

内面がからっぽと表現される、ボーダーの特性と、深い関係があると思うのです。