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 その人は、小学生時代、成績は全教科最下位で、スポーツも不得意。クラスメイトから嫌われる大の問題児でした。その後、士官学校に入るのに3度不合格となり、さらには、政治家への転身後、2度選挙で敗北しています。

 この人物こそ、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルです。歴史の教科書では、第二次世界大戦の戦乱の中に、度々登場します。文才もあり、ノーベル文学賞を受賞しています。

 またこんな人物もいます。俳優としてデビューするものの、端役程度の出演が続き、一時期は、大道具の大工として働いた時代もありました。

 この人物こそが、名優ハリソン・フォードです。後に、彼は、『スター・ウォーズ』三部作のハン・ソロ船長役で有名となり、また、『インディ・ジョーンズ』シリーズで大ブレイクします。

 そしてもう一人についてです。日本人です。この人物、アメリカへ留学した時、ホームステイ先の主に騙され、奴隷として売られてしまった希有な経験をします。とにかく若い時代は、定職に就けず、多くの職業に従事したといいます。また、ペルーの銀山の経営に携わりますが、ここでも失敗し、財産の多くを失ってしまいます。

 さて、誰かと申し上げますと、高橋是清です。昭和の金融恐慌を鎮静化させることに成功した名大蔵大臣です。大蔵大臣としては6度務め、内閣総理大臣の経験もあります。特に当時世界恐慌の中、世界のどこよりも早く、国内経済を立て直した際のリフレーション政策は、語り草となっています。

 とかく人は、失敗、挫折、逆境などという谷間の時期をおそれて避けようとしますが、ここに、成功の秘訣が隠されています。まさに優れた偉人伝が、かく語ります。

 うまくいかず、心が折れそうな時期を経験した者たちだけが、そこから大いに学び、そこで得た強いメンタリティが支えとなって、あらゆる困難を乗り越えていきます。

 どうか、若き未来の可能性たちよ、決して失敗をおそれず、チャレンジにチャレンジを重ねて、うんと傷つきながら、うんと学び、うんと思考の成長を果たしてください。

 そうしていつか、ウィンストン・チャーチルのように、ハリソン・フォードのように、高橋是清のように、本物の強い人へ。そこに自分が生きた、尊いあかしを。

 すでに教育の世界では、新指導要領へシフトチェンジし、先ごろでは、センター試験廃止の方針が打ち出されました。

 ついに山は動きました。

 もはや日本の悪しき現状維持習慣を捨て、国を挙げた本気の教育改革が始まっています。おそらく、がらりと景色が変わるくらいの、教育イノベーションがスタートしたということです。

 これにからみ、11月26日(火)に二つの教育関連記事を目に留めました。一つは都内の発表です。東京都教育委員会が公表したところによりますと、都内公立中学校と高校に勤務する英語科教諭(採用3年目)を対象に3か月間の海外留学を義務付けるそうです。若手教員研修の一貫として平成26年度から、この方針が採用されます。

 そして、もう一つ。文部科学省による国立大学法人の改革プランの発表です。今後10年間で世界の大学ランキングトップ100に、日本の大学から10校以上ランク入りすることを目指すそうです。

 現状では、日本の大学の国際評価はあまりに低く、イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が今年10月に発表した世界大学ランキングでは、トップ100入りした日本の大学は、何と、東京大(23位)と京都大(52位)の2校だけです。

 こうした結果を受け、旧態依然の大学運営から脱却し、国際社会で通用する「研究施設と人材育成の場」へ向けて、大きく舵を切ることになります。

 どうしても、この日本という国は、変わることを怖れる傾向が強いので、教育改革のニュースが伝わる度に、四方八方から反対論が飛び交います。ここで、教育をもっとよくするための効果的代替案が出るのなら、建設的な意見交換といえるでしょうが、残念なことに大方現状維持思想のオンパレードでしかありません。

 何より、世界の産業の形が変わり、これに合わせて求められる人材もまた大きく変化しているのですから、当然、世に人材を送り出す教育という装置に大改革がなければなりません。

 今や世界を見渡せば、シンガポールなどの教育イノベーションがそうであるように、日本従来のクラミング(詰め込み)型から、クリエイティビティ(創造性)型へ切り替えなければならないはずです。

 ともあれ、根強い抵抗勢力がいようとも、日本の教育イノベーションはようやく黎明期に入ったわけです。今後、チャレンジと失敗、修正、改善・解決のプロセスを経て、その教育改革の先には、大きな成果が待っていることを信じます。

 すでに「アベノミクス」という言葉が日常語となっているくらいですから、安倍内閣のイメージと言うと、やはり経済です。いわゆる3本の矢と命名された、「大胆な金融緩和」、「機動的な財政出動」、「民間投資を喚起する成長戦略」の下、ものの見事に景気は回復し、一気に経済の問題が好転しています。

 実は、安倍政権が力点を置いているのは、経済に限りません。日本のリーダー自らが「経済」「外交・安全保障」「教育」「暮らし」の4つの「危機」を突破します、と宣言しております。

 そうすると、教育者ならば、その中で留意したいのは、教育です。すでに、官邸に立ちあげられているのが、総理肝いりの教育再生実行会議であり、教育改革の司令塔の役割をしています。総理の名字「安倍」とエデュケーション(教育)を組み合わせてもじった「アベデュケーション」という言葉もあるようですが、教育改革は進み始めています。

 もう皆様もご存じでしょうが、大学センター試験を廃止するという提言をまとめたのも、この教育再生実行会議です。今後、政府の教育再生実行会議で打ち出された方針に基づき、文部科学相の諮問機関である中教審や、自民党の教育再生実行本部で、具体策を煮詰めていくこととなります。

 どんなに私たちが昔を懐かしもうが、間違いなく、世界全体の変化の流れは誰もせき止められません。次々と世界の産業や経済が変わっていくのに合わせ、変化の荒波の中で通用する人材を育成するのが、教育の役割であることを強く認識するべきです。

 もはや現状維持など許されません。政府が本気である以上に、教育現場がもっと本気になり、教育イノベーションへ本腰を入れていく必要があるはずです。

 何も、「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を強力に進めていくこと」は、教育再生実行会議限定の任務ではありません。本物の教育者たちが、全体で共有するべき崇高な任務です。
 先日の全国統一小学生テスト時の個別面談でご質問がございましたが、総じて、作文技術へのご関心はとても高いようです。

 日本の教育制度が、知識の詰め込み重視型から、人物重視の総合評価型へ舵を切る流れができております。もはや古い時代の教育に見切りをつけ、海外の人材育成を見習い、教育業界でも、プレゼンテーションの技術が研究されています。

 すでに個別面談にて、この辺りご説明しておりますが、今回、ご見本を掲載します。

※作文問題の文章については省略します。

【問1】子供の世界でよく起きる三つの問題とは?

【答え】
他人を責めることで、自分が責められないようにすること。

他人の欠点ばかり探すことで、自分の未知の可能性から逃げてしまうこと。

自分が何者であるかを知らず、自分で自分を認められないことで、いちいち場の空気ばかり気にして、他人への思いやりに余裕がないこと。

別解:アイデンティティの確立から始まる自己肯定の考えを見失うことで、場の空気ばかり気にして、他人を思いやる優しさまで配慮できなくなること。

【問2】できる限り、幸せな社会を目指すために必要なことは何ですか? 筆者の考えに沿う形で、そのことに関連したあなたの経験と、その経験から得たことや気づいたことなどについて、800字程度で書きなさい。必ず、筆者の見解について説明した上で、「人の優しさが感じられるひと場面」を盛り込み、「自信」という言葉を使うこと。

【答え】
 いかに自分が何者であるかを知り、どれほど自分で自分を認められるか、その大切さを筆者は主張します。こうした自己を肯定する力によって、他人を思いやる優しさが芽生え、ひいては、それが幸せな社会の実現のために必要な要素となります。 

 ある雨の日のことです。突然烈火の如く、父は怒り、私の大切な本を、玄関に投げ捨てました。誕生日に、両親から買ってもらった「ニルスのふしぎな旅」という児童文学です。あまりの衝撃にびっくりしながら、必死になって裸足でその本を拾い上げました。玄関は雨水で濡れていたので、私にとって大切な宝物は、ワンワンと情けなく泣く私と同じように、無残な姿になっています。あまりにひどい仕打ちでしたが、正しいのは父です。なぜなら、私が妹に意地悪をしたからです。この「ニルスのふしぎな旅」を貸してあげないどころか、わざと妹のいる前で、面白がって読んで見せたのです。

 私の父は、勉強のことで、とやかく言わない人ですが、人への優しさを子供たちに伝えることには、殊更ムキになります。実は私の父は大の泣き虫で、怒っているはずの父の顔を見ると、いつだって苦しくて泣いています。一緒に苦しみも悲しみも分かち合えるくらいに、本当に優しい気持ちを持っている人です。それでいて、どんなときでも、自分の考えや生き方に自信があるので、一貫性があり、絶対にぶれません。そんな父の姿を見るに、もっと自分の考えをしっかり持つことで、優しさを人に与えられる人間へと成長したいです。そしていつか、幸せな社会を築く一員として、その責任を果たすことを目指しますが、手本はやはり強くて優しい私の父です。
 何かがおかしいと感じることがありますが、それは、ある授業の中で起きました。
 
 先日、社会の授業で、世界の飢餓をテーマとしました。

 国連WEP(国際連合の食糧支援機関)によれば、世界の人口70億8000万人のなかで、8億7000万人が低栄養に苦しんでいると言います。

 これを少々計算すると、世界の8人に1人が飢餓に苦しんでいということです。

 また別の計算式にすれば、世界の12.3%が飢餓に苦しんでいるという表し方にもなります。

 もっというと、FAO(国際連合食糧農業機関)によると、飢餓が原因で、1日に4~5万人(年間で1500万人以上)が亡くなっています。その内訳を見ますと、7割以上が子供たちです

 このような補足用の資料を授業中に配付し、子供たちがこれに基づき分析していきます。確かに、上手に線分図や数式を操り、数値を求めることができます。

 しかし、まさにこのときです。正直、何かがおかしいと思いました。あまりに冷静すぎます。淡々としすぎています。

 これはあきらかに、間違っています

 そこで、私は、突然、子供たちに尋ねました。

 この資料を見て、君たちは、何も思わないのだろうか──一体、君たちはここから、何を学ぶのだろうか──

 さながらマシーンのように、数値を解くとしたら、それは人としての学びなんかではありません。言うに及ばず、受検を控えていますから、確実に得点することが求められるのでしょうが、仮にそれで合格をしたとして、私には、到底優れた人材へ成長するように思えません。そんな人間たちが、世の中で活躍する光景なんて、全く思い浮かびません。

 しばらくして、皆、はっとした顔になって、たった今目を通してきた資料を、真剣に読みなおし、自分が求めた数値と照らし合わせてくれます。

 すっかり反省した顔となり、世界の飢餓の痛ましさに胸を痛め始めます。日本では当たり前の飽食と比較して、今日も餓死する遠い国の子供たちへの想像をめぐらし、とても悲しい顔をしてくれます

 改めて気づくことですが、本当に子供たちは、まだ人生が始まったばかりなのですから、どうしても備えている情報が少ない分、なかなか正しい選択へ向かえません。裏を返せば、あたかも真っ白のキャンバスのように、何色にも染まるのが子供です。

 そうすると、やはり教育者の側が、清廉な心を持った上で、正しい道筋をつけてあげないと、未来の可能性たちは簡単に間違った方向へ進みます。おそらくあまりに残念なことですが、この国全体でみたとき、教育者の判断が良識を失っているために、人として進んではいけない方向へと後押ししていることがあるように思います。

 間違いなく私も教育者です。私の教え一つで、単純に数値だけ求めるマシーンにすることもできれば、他愛を重んじ、弱者を守る気概を育てあげられます。どんな人間になるかは、教育者の選択で決まります。それにしても、つくづく教育者としての責任を感じます。

 ぐっと、自分に問います。本物の教育とは何か。そして、戒めます。邪悪であるな。常に誠実であれ。すべての学びは、未来に活躍する一点へつなげるために。
 とてもうれしい合格のご報告です。
 
 あっぷ指導会の生徒が、東邦大学看護学部への合格を、見事果たしました!

 ともに、合格を目指し、小論対策と面接対策を重ねてきただけに、この朗報は、格別です。

 本当に──おめでとうございます

 思い返すに、昨年の同時期に相次いで、学習院大学経済学部経営学科、東京農業大学応用生物学部醸造科への合格を達成しましたが、本年度もまさに、幸先の良いスタートです。

 おそらく、本年度の受験生たち全員がこれに続いてくれるはずです。毎晩遅くまで、サポートする講師陣ともに、受験対策へ集中しておりますが、模試の結果をみても、ぐんと成長しております。

 何より、メンタリティの面で優れた人材が多く、今の学びの一つ一つを、未来に活躍する一点へつなげようと、学習への夢中度が突き抜けています。

 もちろん、学力をつけることは大切ですが、それよりも、人として獲得しなければならないものがあるはずです。アイデンティティやモラル、正義、誠実、他愛の精神、弱者を守る精神などを身につけることの方が先決です。

 その意味で、手前みそで恐縮しますが、当塾の受験生面々は、優れています。充分、学問を習得する資格のある者達なのですから、もっと強い人間を目指し、ぜひとも日々のハードワークを通し、学力を向上させてください。

 きっと今さら強調するまでもなく、彼らはよくわかっているでしょうが、弱い人たちを救いたい気持ちがあろうが、弱い人間には何もできません。だから、本当に誠実で、本気で困っている人たちを助けたいと願うなら、学問の力を得ることで、もっともっと強くなるべきです

 直感というと、瞬間的に、感覚だけを頼りに物事をとらえることです。ここには、左脳による論理的考察はなく、インスピレーションやイマジネーションに長けた右脳の力がものを言います。一般的に、直感に鋭いのは女性だとされますが、「女の勘」などとして使われる、いわゆる「勘」と同じ意が、この「直感」です。

 そして、もうひとつのちょっかんです。こちらの「直観」は、瞬間的に物事の本質を見抜くことです。

 もちろん、左脳によって、一つ一つの情報を整理し、ロジカルに組み立てることで、真実を求める方法もありますが、この直観とは、私たち人間が進化の過程で獲得した人間の右脳に内在する力です。

 そもそも進化の過程をたどるなら、人類は道具を駆使する技術を覚え、同時にコミュニケーションのすべを獲得していきます。次々と、生活の質を改善させる道具を発明していく中で、個々の思考力を成長させ、さかのぼるに、サルだった時代から、この個が常に集まり、助け合うことによって、他の生物を圧倒していきます。

 何よりも集団生活が一人一人生きていく上で欠かせないことを知る人類は、今の現代に至る中で、何が生きるために得策で、何が生きるために不利かを経験し、学習していきます。

 およそ700万年前に、サルと分化し、そして直接の先祖にあたるホモ・サピエンスが20万年前に誕生してから、相当な長い年月を経て、今の私たちにつながります。

 その膨大な経験の蓄積によって、遺伝情報が組み立てられていくわけですが、その進化の中で、「直観」もまた育まれながら継承されていきます

 仮にも人間として生まれたのなら、生まれながらにして、特別に学習することなく、困っている人、弱い立場の人を見たら、どうにかして、助けたいと思うはずです。あるいは、幼少期にヒーロー映画をみると、正義の味方を応援したがります。

 何が人の集団の中において正義で、何が人の選択として、美しいか──実は子供のときから、私たちは、瞬発的に本質を見抜く力を備えています。

 おそらく、生き物の世界において、コミュニティーの力を武器とし、優位性を保ってきた私たちの祖先は、何か問題が発生して、何かを選択する際に、集団全体が最も納得できる判断を採用しました。こうした選択を何度も何度も繰り返し、その選択の情報を集積し、それぞれの右脳の中に、直観の能力を発達させていったに違いありません。

 したがって、学習レベルの低い子供の中にも、集団全体の納得をてことして、内在し続ける直観が備わっています。そして、大人になっても、この煌めく力は、自分個人にも、社会全体にも、大きな効果を生み出します。

 もしも何か問題が起きた時、もちろん論理的思考力も駆使するべきですが、人間にとって直観は威力抜群です。

 何が、人として美しい選択か、人生における美意識とは何か──この本質を見抜く直観力を頼ることで、きっと、人は正しい道を進むことができます。

 とにかく自分のわがままへ誘導するような屁理屈や邪悪、醜悪を止められないとしたら、それは教育を受けるよりも先に、精神の土台を整える必要があります。この精神の土台として強く認識するべき思考の一つが、この直観です。

 どうか、若き未来の可能性たちよ、決してダークサイドに陥ることなく、いつだって自分の行動への美意識、人生の美学をひしひしと感じながら、清らかなる正しい判断をしてください

 子供たちの世界を見つめてみると、日々よくもまぁ、こんなにとあきれるほどに、もめごとばかりです。

 ただ、これをよいようにとれば、学校のクラスの仲間たちの間で、コミュニケーションが上手にはかれないからこそ、この失敗が大いなる学びにつながります。いつか彼らが社会へ出たときに、子供時代に自分が傷つき、人を傷つけながら、学んだ「対人対応技術」が大いに役に立つものです

 たとえば、子供たちの世界の光景でよくあるのは、悪口合戦かもしれません。とにかく精神的に幼ければ幼いほど、人のあら探しに一所懸命になりがちではないでしょうか。
「だれだれちゃんが、あんなことしている。こんなことしている」などと告げ口を言いたがります。

 しかし、彼ら自身がきちんと認識していないことを、心理学の観点から分析するなら、ひとつは過剰な防衛本能について説明する必要があるでしょう。誰かを集団で責めることで、自分に批判の矛先が向かわないように、無意識的判断が働いている場合があります。誰か1人を標的とするいじめの図式としてよくある典型例ともいえます。

 また、もう一つは、未開発の可能性です。他人の欠点ばかりに気持ちが向くとき、実は、自分で果たすべき何かがあるのかもしれません
「だれだれちゃんが、計算練習をさぼっている。だれだれちゃんが、宿題を丸写しにしている」などと人のマイナスを見つけたがる子に限って、自分自身が取り組むべき勉強を怠っているものです

 明らかに、他人に干渉することで、自分の未知の可能性を切り開くことから逃げてしまっています。つまり、他人にばかり気持ちが向かう人は、現実逃避型の性格が強いことになります。

 さらにいうと、集団の中に身を置くと、「空気が読めない」という言葉がちらほら聞こえてくるかもしれません。「これを言うと、皆に嫌われるから言わないようにしよう。このときは、場の雰囲気を乱さないように、みんなと、発言を合わせよう」などと心理が働きます。個人より、集団が優先される、日本人特有の考え方が、この、「空気を読む」「空気が読めない」に集約されているようにも思われます

 さて、子供たちの集団生活における問題ばかり、挙げてきましたが、もちろん重要なのは、こうした問題について、どのように解決するのかということです。特にここからは、3点目の「空気を読む」「空気が読めない」に焦点を絞りましょう。びくびく人の顔色をうかがう人間関係の問題についてです。

 端的に申し上げるなら、この解決の鍵は、アイデンティティと自己肯定です。

 なかなか日本人には、聞きなれない言葉かもしれませんが、辞書を引くと、「アイデンティティ=自己同一性(主体性)、帰属意識」と書いてあります。もっと簡単にアイデンティティを説明するなら、一体自分が何者であるかということです。

 もっと具体的に、一体自分自身がどんな人間なのかについて、判断材料を挙げてみましょう。自分の長所、短所は何か。自分が夢中になっているものは何か。自分を守ってくれる家族や友人たちはどんな愛すべき人たちか。自分が身を置くコミュニティ(共同体)や国家をどれほど愛しているか。あるいは自分が生きてきた歴史にどんな物語があって、その思い出の中で、何が自分の生きる支えになっているか。そして、過去の一つ一つの生きた証が、今の自分とどのようにつながり、自分が心から希求するビジョン(未来像)へどう結びついているか。

 別言すれば、アイデンティティとは、ゆるぎない自分の精神の根がどこに下ろされているか、自分自身でよく理解した状態であり、そして生きる上で、絶対に見失ってはいけない道しるべともいえます

 昔から日本では、個人よりも、集団や環境が重んじられるのに対して、欧米では、伝統的に集団よりも個人を出発点として物事を判断します。和を尊ぶのはどちらで、自己主張が強いのはどちらかを少々想像してみると、日本と欧米の思想は、まるっきり正反対です。

 そうすると、欧米の人々の思想には、アイデンティティが育まれていることになりますが、逆に彼らには、「空気を読む」という感性自体、備わっていません。また日本人の場合、アイデンティティやまたそれに代わる語が日常語として使われていないので、個人の精神の拠り所を失っていることとなり、そのため、個を殺し、集団の空気のようなものに縛られがちです。何とも厳しく言うのなら、アイデンティティクライシス(自己喪失)などという言葉がありますが、これに当てはまるのが、日本人気質であるとも解釈がつきます。

 もはや、島国根性が通じないグローバル化の時代においては、もっと個が強くならなければなりませんし、さぞや、アイデンティティクライシス(自己喪失)を嘆いたって仕方ありません。そもそも日本人の中にあっても、実は魅力的な人間は、個性が豊かで、自分に確固としたアイデンティティのような思想を持っているものです。歴史上の人物では、ことごとく古いしきたりを破壊した織田信長がそうですし、日本で初めて株式会社「亀山社中」を立ち上げた坂本龍馬もまたそうでしょう。

 きっと世の中の常識を変えてしまうような偉人なら、びくびく周囲の反応ばかりに気をとられることはないでしょう。必死にみんなに話を合わせて生きることもないでしょう。いちいち、みんなの顔色などお構いなく、空気を読まず、正しいことを貫くはずです。確固たる自分と言うものを持ち、このアイデンティティが自分の精神を守り、何事にも、自己を肯定する力が源となり、正しいことを正しいままに突き進むでしょう。こうした「自分で自分を認める自己肯定の力」があれば、同じように他人を肯定する力も持つはずです。ひいては、向かい合う他人の、それこそアイデンティティに関心を抱き、他人との関係を尊重できることでしょう。このような他人を思いやる優しさは、まさしく純度100%です。その優しさの源をたどれば、アイデンティティを確立し、本物の自己肯定を知る人からにじみ出る真心でできているのではないでしょうか。

 何より人間の本質を説くのなら、こんなことは日本も欧米もなく、自分というかけがえのない存在を存分に認め、そういう貴重な個に対して、偽りなく直視できることが、本物の自己肯定なのでしょう。

 やはり、反対に自分がどんな人間かいい加減にとらえてしまうなら、きっと自分でありながら、自分を認められない弱さから、深く相手のふところに入れず、表面的で浅い付き合いとなるのがオチでしょう。せいぜいその場の空気を取り繕う程度で、空気を読んで、穏便に落ち着きどころを見つけようと言うことになります。

 ましてや、偽りの自己肯定に走るのも問題です。自分が何者であるか、しっかりした精神の根を下ろすことなく、ただ安直に自分を守るために、自己を肯定し、その分、他人をおとしめるとしたら、それは、愚かな偽物の自己肯定です。

 もちろん、全員が全員、完璧なアイデンティティの確立を果たし、本物の自己肯定を貫くことで、他人を認める優しさを全面に押し出すなど、はなはだ難しいことに違いありません。すべての人が幸せになる社会など、所詮はユートピア、すなわち想像上の理想的な社会であって、完璧な世界など存在しないことも知っておく必要があるでしょう。

 ただ、すべての人が幸せになる社会の到達など不可能であったとしても、一人でも、自分を信じ、本物の自己肯定を備えることによって、人に優しくなることができるなら、望ましいことです。少なくとも、いちいち顔色をうかがう人間関係なんて、もうまっぴらごめんです。一人一人が一歩ずつであっても、しかし着実に自分らしさでつながり合う社会へ向かうとしたら、どんなに優れたことでしょう。
 ヘンリー・キッシンジャーという人物をご存知でしょうか。

 米国のニクソン大統領のもと、大統領補佐官、国務大臣を務め、外交の専門家、外交の達人として、多くの業績をのこしています。

 たとえば、米中の友好関係を構築し、米中ソの3大国勢力均衡による国際秩序づくりに奔走したことはあまりに有名です。

 ほかには、ベトナム戦争の終結を推進したことで、ノーベル平和賞も受賞しています。とりわけ、ニクソン政権時代、ウォーターゲート事件が発生し、大統領主導による政治運営が機能不全となった際は、対ソ交渉や中東和平に向け孤軍奮闘の活躍をします。

 その外交家としての辣腕ぶりといえば、戦後の政治史において彼の右に出る人物はよもや存在しないかもしれません。

 さて、彼の経歴をたどると実に優秀な人物だということがわかりますが、どんなに能力があろうとも、ひとつくらいは欠点があるものです。実は、彼の出自をたどると、ナチスから逃れたドイツ移民だったため、彼の英語はなまりがひどいというハンディキャップがあります。

 しかしながら、少々の言葉の聞き取りづらさなどお構いなく、社交的な彼は、数多くの名言をのこしています。

 そのひとつをご紹介します。

If you do not know where you are going, every road will get you nowhere. どこへ進んでいるのかわらないなら、どの道を向かおうがたどりつくゴールはない。

 やはり、学生ならば、まずは目的、目標を定め、そして学習計画を練り上げることです。どこへ自分が向かうか考えず、ただ場当たりに毎日を過ごすのなら、到達すべきゴールは決してありません。キッシンジャーの言葉からぜひ学び、自己の修養のたすけとしてしてください。
 とても残念なことに、学校に通う日本の子供たちは、学問を、野菜にたとえるなら、トマト、ピーマン、にんじんのように思いがちです

 学問という言葉を聞いただけで、それこそ、にんじんを見ただけで逃げてしまうように、嫌悪感丸出しにしてしまう例は、決して珍しくありません。

 彼らの心理に立てば、まず嫌い、まず苦手と思い込みます。しかし、ものすごく栄養価が高いので、食べなければいけないことはよくわかっているのですが、どうしても二の足を踏みがちです。

 先生もまた、おそらく自分自身もまた子供の時代に同じ過程を歩んだのでしょう。自分も嫌い、子供たちも嫌い、けれども、栄養価が高いことはよく知っているので、どうしても食べさせたいと、子供たちに我慢を強いるわけです。

 しかし、これって本当に、この学校教育の学問は、真の学問と呼べるものなのでしょうか

 私は、学問を食べ物に見立てるなら、大トロのマグロ寿司や松坂牛のステーキなどはるかに超えていると思います。

 実際に、世の中のあっと驚く仕組みを知る機会があるなら、そちらを優先にして、寿司屋の予約などキャンセルしてしまいたい気持ちになります。

 人間の脳が、「なるほど!」と納得する瞬間ほど、至福の時間はありません。高級寿司のうまさなど比較になりません。

 また学問は感動を与えるだけではなく、これを脳に吸収し、脳の回路に組み込まれることで、膨大なエネルギーを生み出します。社会に出た時、学問によって育まれた脳の思考力が、圧倒的に生きる力を与えてくれます

 しかも学問には全く副作用がありません。おいしい食事をとりすぎたら、肥満、糖尿病などリスクが伴いますが、学問はマイナスをもたらすことがないという意味でも、本当に優れています。

 ただ問題は、学問に対してのアプローチの仕方です。学問への魅力をまず知ることから始めなければなりませんが、要するに学習塾の腕が存分に試されるところです

 学びが我慢ではなく、学ぶことが至福だと上手に認識を切り替えることができたなら、これほど多大に人生の価値を引き上げることはありません。

 やや本校の宣伝に傾き、おそれいりますが、ただ今、各種、体験授業を実施しております。この機会に、学問への考え方をふり幅大きく変えてみませんか。自分の世界観そのものを躍動的に広げてくれるのが、まさに「学ぶという行為」の真骨頂です。