こんにちは、人間です。

 

内田樹さんの著書『下流志向』を読んでみて、興味深い事例が紹介されていたのでここに書き留めておきます。

 

最近の小学生の傾向として、よく教師に「自分たちが今からやる勉強には何の意味があるのか」と質問する、というものが挙げられるそうです。

そして、自分が納得する答えが得られないと、「じゃあやらない」といって、授業中に居眠りをする・立ち歩く・おしゃべりをする…といった行為に及んでしまうそうです。

この傾向は近年では顕著なものになっているそうです。

 

その問いに対して教師は「勉強するといい学歴が得られて、いい企業に就職できて高い収入が得られて…」という功利的な勉強の目的を生徒に教えるケースが大半です。

 

これに対し内田樹さんは、「この問いに教師は絶句しなければならない」と仰っています。

 

これについて、まず「戦前は子供が家庭内での貴重な労働力として使われ、教育を受ける機会を奪われてしまっていた。これに対し危機感を覚えた人々が、戦後の新憲法制定に伴って親側に”教育を受けさせる義務”、子供には”教育を受ける権利”を与えたのである」

 

と述べられています。

 

確かに今まで不思議に思っていたこととして、「なぜ親に”義務”、子には”権利”なのか?」ということがあったのですが、なるほどこういう背景があったのですね。

 

それではなぜ「教育を受ける義務」ではないのでしょうか?べつに「教育を受ける義務」でもいいような気がしますが…

これに対し内田さんはこう仰っています。

 

子供が、教育を受ける機会を与えられながら、それを拒否することなど考えられなかったから

 

つまり、「子供が教育を受ける機会を欲している」ということが自明のことである、ということが前提になっているということです。

 

内田樹さんは、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、財産権、身体の自由…などといった基本的人権のような、「当然な事」の中に「子供が教育を受けること」、もしくは「子供が教育を受けたいと思っているということ」を含めているのです。

 

例えば、あなたが「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と聞かれたら、もちろん「それが当たり前だから」という答えをすると思います。

 

これと同じように、「なぜ勉強をするのですか?」という問いには「当然だから」という返答しかできない、つまりそれ以上答えることができない、という意味で「絶句する」ということになります。

 

そして、近年の小学生がこのような質問、「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いを発すること自体、昔では考えられなかったようです。

 

それではなぜこのような現象が起こっているのか?

 

それに対し内田さんは、「労働主体」と「消費主体」という概念を用いて考察されています。

 

一昔前までの子供の人格の形成は「家庭内での労働(家事の手伝い等)」という行為を通じて行われてきました。

そして、労働とは、「行うのに時間がかかり、その行為を遂行した結果初めて自分の行った行為の結果が分かる」ということが特徴です。

家事について言うなら、「親の家事を手伝うという行為を行って初めて自分の家庭内での地位が確立される(褒められる、”役に立つ良い子だという認識をしてもらう 等”)」ということになるでしょう。

こうした行為を通じて人格を形成した子供たちは、「自分がその行為を実際にやり終えて初めて何かを得る」というプロセスを学びます。

 

一方、大量生産・大量消費の時代である現代、日本も比較的裕福になり、子供たちは家庭での手伝い等を経験する前に、「消費者としての自分」という人格を形成してしまうのだと言います。

消費行動というものは、「自分がこれ(=お金)を渡し、その対価として商品を受け取る」という行為であり、商品を受け取るまでの時間は短ければ短いほど良い。つまり、消費行動とは理想的には「交換に時間がかからない」つまり「無時間的なもの」です。

そして、消費行動を就学前にも十分すぎるほど経験している子供たちは、「無時間的な等価交換」というプロセスに慣れきってしまっているのです。

 

ここで、小学一年生の「勉強って何の役に立つんですか?」という問いに繋がってきます。

 

内田さんは、学びとは、「実際に学び終わるまでは”自分が何を学んでいるのか”を知ることができない、ダイナミックな時間的なプロセス」のことであると定義されています。

足し算や引き算を、それを学んでいない状態で理解するのは不可能であることは衆目の一致するところだと思います。

このように、学びとは「時間的なプロセス」であり、「学ぶ前はそれが何であるか理解する事ができない」のです。

家事労働を通じて「時間をかけて初めて何かを獲得する」プロセスによって人格を形成してきた子供たちは、学びという「時間的なプロセス」にも抵抗なく入っていけるのです。

 

ところが、就学前から消費主体としての自分を確立している子供たちは、この「時間的なプロセス」を理解することができません。それはなぜでしょうか。

その理由は、彼ら彼女らが「勉強することに伴う苦役」と「勉強によって得られる実利」を、消費者目線で等価交換しようとしていることが原因である、と内田さんは考察されています。

確かにそうだ、等価交換で何の問題もないじゃないか、と思われるかもしれません。ですが、ここには致命的な問題が隠されています。それは、消費とは理想的には「無時間的なプロセス」であるということです。

学習という「ダイナミックな時間的なプロセス」を理解できない彼らは、勉強する内容、勉強する意味を、それを学ばずに、即座に理解しようとするのです。

そして、彼らは「消費者としての自分」、つまり「消費主体」としての人格を完成せているため、「時間がかかる」ということに耐えられない。

 

そういったことが原因で、「勉強に何の意味があるのか?」という問いが生まれるのです。

そして、納得のいく答えが得られなかったら学習をやめてしまう。

これは、近年の子供たちが、所謂「消費者マインド」で学びという「時間的なプロセス」を見ているということが根本的な原因です。

というのが内田さんの著書『下流志向』に書いてあったことです。

 

正直初めて読んだときは大変驚きました。まさか「労働」「消費」の性質の違いから「勉強って何の意味があるんですか?」という一見理知的な問いについての考察が可能で、しかも説得力があるなんて…

 

この著書に関する私の意見としては、

・勉強する意義を子供たちに教えること自体は問題ないのではないか?

ということです。

例えば「数学は現代の通信技術を暗号化によって支えているんだよ~」といった感じで。

 

しかし、どうしてもこのやり取りの先には、

「こういう風な役に立つんだー」

→1:「なら勉強しよう」2:「じゃあ興味ないからいいや」

ということになり、どうしても「苦役(=お金)と利益(=商品)の等価交換」という構造はあまり変わらないのかもしれません。

 

つまり、「勉強の意義を知ってから勉強する」のではなく、「勉強し終わって初めて意義が分かる」ということを内田さんは言いたいのだと思います。

 

じゃあ、巷で話題の「プログラミングスクール」はどうなのでしょうか?

プログラミングスクールに通う人は、”プログラマーとして働く”ことを目的として働いています。

これは、勉強に伴う”苦役”を、職を得るという、ある意味では商品のようなものと交換しようとしているのではないでしょうか。

 

 

 

プログラマーになること自体には良し悪しはありませんが、プログラマー同士での競争はグローバル化に伴い熾烈になってきているようです。

 

少し話が逸れてしまいましたが、つまり

 

   勉強してから意義が分かる

 

ということになるんだと思います。

 

皆さんの意見もぜひお聞かせくださいねっ

 

ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。