今回は毒親育ちのつぶやきです。
歯の話はありませんので、
あらかじめご了承ください。
機能不全家族のもとに生まれ育つということ。
それは「健全でまともな愛」を知らずに育つということ。
「今のあなたが満たされた思いで
心穏やかに過ごせていますように」とか
「将来のあなたが自分の望む道を
豊かな気持ちで歩んでいけますように」
といったふうに
「幸せ」を望んでもらった経験がないということ。
未熟な親の奴隷として、
親の機嫌を取ることに全力を傾けることしか
知らない子ども。
そして、子どもがどんなに親のサンドバッグとして
頑張っても、
親が親自身の幼少時に抱いた満たされない思いから
解放されることはなく、
親による搾取といじめは続く。永遠に。
だから、
「毒親は捨てるしかない」と
毒親育ちの誰もが言うのだろう。
寂しい。
「健全でまともな愛情」って
それほど特殊なことのようには思えないのに、
パンダやサルその他諸々の動物の親子間にも
あるような気がするのに、
私は人間だけど、
自分の親からそれを与えてもらうことができない。
人と人との間に生じる暖かい気持ち、
相互に相手の幸せを願う気持ちを
実の親との間に(だけ)は、期待できない。
過去も、今も、これから先もずっと。
(正確には、子どもは子どもなりに
親の幸せのために全力を尽くしているので、
一方向性の愛情はあるのだが。)
この事実を受け入れなければならないということが
寂しい。
幼少時に学ぶことができなかった
原始的だけど陽だまりのような暖かな気持ちを
私は果たして、
10代、20代、30代で
学校や会社といった環境での人間関係から、
学ぶことができているのだろうか。
周りの同級生と比べて
何となく幼かった私にも、
「りんには幸せになってほしい」と
願ってくれた友達がいた。
そこまで直接的な表現ではなくても、
私が進むべき道を間違わないように、
自分から不幸にならないように、
そして自分が自分であることに誇りをもつようにと
ある時はそっと、
ある時は強い言葉で
助言してくれた人たちがいた。
私は、私の周りにいてくれた人たちに
「健全でまともな愛」を与えてもらって、
人としての暖かな気持ちを覚えることができたと
思っている。
思っているけれど、
一抹の不安も残る。
それは、こんな不安。
私は本当の本当に、
「人と人との間に生まれる暖かい気持ち」を
理解していると言えるのだろうか?
私が友達から「そういうものがある」と
知らされたときには、
実はもう学びの臨界期が過ぎてしまっていたのではないか?
「人としての気持ち」を体で覚えるには、
幼少期にその気持ちをシャワーのように浴びる必要が
あったのではないだろうか?
子どもが言葉のシャワーを浴びて母語を学ぶように。
学びの臨界期を過ぎていた私は、
何か似て非なるものを勘違いして、
「これが相手の幸せを願うということだ!」と、
勝手に思っているだけではないのか?
そんな不安と恐ろしさも感じている。
寂しい。