見えない神の摂理の御手

このところ、私は悔い改めが続いている。
神の計画以上に自分の計画を最優先させ
御利益信仰寄りに傾いていたからだ。
朝の祈りの時
夜の祈りと学びの時に
チクチク痛みが出ていて
自身の心が最も平安になるように
導かれている。
 

 

教会に属していない私の場合は自宅が

学びの場であり、祈りの場である。
教会に対する不信感ゆえに
どこにも属してしないが
普遍的な(ユダヤ的な教え)の教会の
礼拝に集えることを祈り求めている。
 
 
ホームチャーチのような個人的な集いが
地域で発足すればいいなと思うが
この件に関しての祈りに対する応えは
完全に委ねている。
 
 
私にとって健康とは
肉体的な健康と精神的な健康と魂の健康
の3本柱が揃った状態である。
 
 
年齢を重ねるごとに
「死」から逆算した人生の生き方を
模索するように変わっていった。
 
 
どう生きていくのか。
何を残して去るのか。
生きた証明のようなもの。
そんなことを考えている。