このところ松本清張特集が放送されている。

この人の作品には人間のどうしようもない

業が描かれている。私の中に潜む罪の部分

がうずいてしまう。昭和の俳優陣の演技力

も光るが、男女の性、人間の貪欲、富の力

は留まることを知らないことを教えられる。

いつの時代にも男女関係・貪欲・富の力と

いうのは人間を惑わしていく。

惑わされて人間は麻痺してしまう。一瞬の

判断の過ちから転落人生に至るケースも

珍しくない。しかし分かっていても足を踏み

入れてしまうのが人間の性なのかも知れない。

 

 

私もどうしようもない愚かな女である。頭と

肉体が一致しない。信仰生活では常に工事中

である。私の中に宿る御霊が嘆き悲しんでい

る。お前はいつになったら私の掟に従順する

のか?と聞いてくる。そうなりたいが、そう

ならない自分と常に葛藤していて、人間的に

無理であるから完全に委ねている。以前の私

は信仰生活が義務感と強制で苦しくて、私に

は無理だから世の人に戻りますと離れていた。

それは、律法的な信仰の歩みを当時の教会で

強いられていたからだ。冗談じゃない、人生

を悔いなく生きたいのだ!と人間的な思いで

教会を離れてしまった。そこから早十数年が

経過した。放蕩息子のような歩みを繰り返し

落ちぶれるところまで落ちぶれた。

 

 

神様は実にユニークなお方である。私のような

どうしようもない愚か者にもネットという媒体

を介して聖書観を学び直すように導かれた。

それが、今回は強いられてではなく自発的だ。

不思議とそういう気持ちが芽生えたのである。

最初は夜だけの聖書の学びが、翌年には朝と晩

いかなる時にも毎日継続している。飽き性の私

が一体どうしたものか。ここに神の愛と計画が

見えてくる。産みの親からは見捨てられたが

人類の親からは見捨てられていなかった。ここ

に慰めと希望がある。人は、誰かに愛されない

とひねくれる。大人になればなるほど真実の愛

が必要である。この愛を味わい尽くすには聖書

の学びが不可欠であることがやっと分かり始め

ている。