昨夜のハーベストタイムの礼拝ではルカの福音
書で悪霊に憑かれた人の癒しの事例であった。
この箇所を学びながら、以前の教会の異質さを
思い出していた。何かにつけて「悪霊の仕業」
だと「イエスよ!イエスよ!イエスよ!」と
大声で全員が叫びながら祈らされる緊迫感のあ
る礼拝だった。病で伏せれば、悪霊を追い出せ
!と言われるため、当時の伴侶は「悪霊も大変
やね」と言っていたものである。確かに離れる
まえはみょうに白けていた。これこそ、人間的
な手法が加えられた歪んだ信仰ではないのか?
悪霊を軽視しているわけではないが、信じた者
に悪霊は留まり続けないと学んで、納得した。
この恐怖を植え付ける手法は、今の政治家が
コロナウイルスで煽るのと似ていないか?
聖職者でも歪んだ福音を伝えている時代であ
る。教会の看板に騙されてはならない時代で
ある。安易に人や聖職者を信用せず、自ら調べ
て確認したうえで参加するくらいの慎重さを備
えたい。
今日のクレイの学びは出エジプト4章イスラエ
ルの民が神を信じて礼拝を捧げるシーンである。
モーセを通して起こる神の御業を民が信じて礼
拝を捧げるのだが、この先、食べ物や飲み物の
件で不平不満が出始める。この地点での民の信
仰は荒削りの表面的であることがわかる。同様
に自分もイスラエルの民と同じレベルである。
自分という人間は、自分が思う以上に小心者で、
疑い深く信じにくい。一喜一憂する自分に幻滅
するほどだ。しかし、神はレベルに応じて、
レベルに見合った出来事を通して訓練してくだ
さる。背伸びせずに他者と比較せずに、淡々と
毎日のデボーションを通じて神を霊とまことを
もって礼拝していきたい。
1日1章の学びは創世記32章の学びである。
受肉前のイエスとヤコブが格闘するシーンであ
る。カナンの地に帰還することで最も恐れてい
たのは兄エサウとの再会である。ヤコブは兄が
殺意をもっていたことを恐れて、ハランの地へ
逃げたのだ。
そこから20年の歳月が経過しても、この恐れは
ヤコブの心を支配していた。今、カナンの地に
帰還する時になって彼は諸々の兄に対する備え
をしている。人間的な誠意を尽くしても、根っ
この恐れが抜けない。この場面は私にも十分心
当たりがある。人間的なことに信頼するあまり、
神の摂理が見えなくなる瞬間だ。背後には神の
摂理が動いているのに、それが見えないから躍
起になる。
受肉前のイエスはこの時にあえて、チカラを緩
めヤコブの股関節を打った。「もう、よかろう」
という合図だ。この時にヤコブは、兄に対する恐
れよりも神に対する畏れを認識している。
肉の思いと霊の思いは全く異なるものである。
そこにいち早く気付いて、信仰による判断ができ
る自分でありたい。
今日も自分のチカラを捨てて、恵みと信仰によっ
て歩んでいこう。