同じタイトルの映画を何度か鑑賞したことが
ある。全く信仰とは真逆の内容であり、人間
のどうしようもない罪の性が名優によって
表現されている映画である。緒形拳の演技は
圧巻だ。昭和時代の役者は、今も色褪せない。
彼の作品として「砂の器」「鬼畜」など松本
清張作品は片っ端から観ているが、作品全て
に人間のどうしようもない性が描かれている。
松本清張が単なるミステリー作家ではなく
人間の情緒や性、葛藤を炙り出している場面
に吸い寄せられる。それは、自分の一面でも
あるからだ。罪人はどこまでいっても罪人だ。
今日のクレイは出エジプト4章アロンの役割
についてである。彼が大祭司として献身した
のは知っていた。しかし大祭司がどういう役
割を果たすのかに関しては、いまいち理解
していなかった。今回創世記から順に学んで
きたからこそ、幕屋に関しても霊的な意味が
立体的に見えてきている。同様に、新約聖書
も旧約聖書理解なくしては、表面的な荒削り
の理解になりやすい。今では、あれだけ避け
ていたレビ記が好きになってきている。そこ
にユダヤ人の幕屋や神殿に対するこだわりと
メシア理解が見えてくるからだ。ユダヤ的な
視点で旧約聖書を学び始めると、まるで同じ
同胞の視点でメシアの再臨を待望する意識が
強まってくる。アロンは大祭司であったが
シナイ山でモーセが神と会っているときに
金の子牛作り加わっている。不完全な大祭司
であるが、イエスは何一つ罪を冒していない
完全な大祭司である。そのお方に繋がること
ができる恵みに感謝しながら歩んでいこう。
1日1章の学びは創世記三十一章である。
ヤコブと叔父ラバンの対決のシーンである。
アブラハム契約の祝福を受けたヤコブには
資産(家畜)も増え広がていった。家族も
増えたころに神からカナンの地へ帰るよう
命じられる。ヤコブが凄いのは自分の手柄
で財産が増えたのではなく、神が介入して
くれたお陰であることを真っ先に認めてい
ることである。ここに彼の謙遜と
高潔さが見える。ここに、調子がいいとき
こそ、創造主と密接に繋がり、この世と
調子を合わせない視点の重要性に気づく。
一方ラバンは、強欲が加速して利用できる
ものは、とことん食い潰すという思考で
生きている。そのような生き方をしている
と、近しい人からも疎遠にされるのは当然
の流れである。娘たちもヤコブと同じく
離れることに賛同している。ラバンはヤコブ
を欺いたため、今度は娘のラケルから欺かれ
ている。同じ類の呪いが自分に返ってきて
いるのである。この箇所から戒めを受ける。
人は感情的に仕返し(復讐)を考えやすいが
信仰に立つと、神が最もふさわしい時期に
それ相応の刈り取りをさせるという法則だ。
理不尽な状況下のときこそ、信仰が試される。
復讐するは、我にありとは、相手から傷つけ
られても、穏やかに過ごしなさいという意味
である。そして、神にあとは任せる姿勢こそ
大きな意味があるということを学んだ。
今日も、自分の力を過信せず、力まず恵みと
信仰によって歩んでいこう。