夜の部ではロマ書を通じてパウロの口から出る

有罪宣言と義認の意味を学んでいる。非常に

難解で、ヘブル人の手紙・ローマ人の手紙と

黙示録は1回学んでも「???」であった。

今回は旧約聖書を学び直したあとの2度目の

ロマ書の学びの段階である。自分が罪人である

という認識が儒教国では不自然に感じるが、

原罪というものが、人類のはじめアダムの時に

すでに血の中に流れている認識が、知的理解と

して知らないと、イエスの十字架の血潮の重み

が理解できない。その点で、私の救いの理解は

乏しかった。神学は、聖職者だけが知る分野だ

と思っていたが、どうもそうではない。今や

信徒こそ、教会や聖職者に依存しないように

自発的に学んで、真理を見極める確かな目が

必要な時代にあると思っている。

 

 

 

今日のクレイは出エジプト記4章でモーセの

言い訳その4である。口下手のモーセが神から

の使命に対して後ろ向きな言葉を述べるシーン

である。神はしびれを切らして戒めるのだった。

「誰が口を聞けなくすることや目を盲目にする

か?この私ではないか」と。消極的なモーセに

対して背中を押し、口が達者な兄アロンを遣わ

す配慮までして下さる。ここに励ましがある。

自分の霊的な資質や賜物というのは、案外見え

ないものだ。人から言われて気づくこともある

が、失敗を恐れてなかなか立ち上がれない時が

ある。私もそうである。何が賜物なのか全くみ

えていない。人前に出ずに、目立たない働きを

懇願して祈り求めている。

 

 

 

1日1章の学びは創世記26章である。イサクが

父アブラハムと同じ罪を犯してしまうシーンで

ある。自分の妻を妹と偽り、ゲラルの王アビメ

レクに差し出そうとしていたところに神の御手

が伸びるのである。アブラハム契約のゆえに

イサクの罪も相手の王側に危害が臨むのである。

イサクは平和の人で知られ、聖書にも記録が

少ないが、様々な妬みによる嫌がらせに遭って

も仕返しをせずに、自ら新たな道を発掘してい

く姿勢をみると(井戸掘り)感情に支配されず

信仰に歩むイサクの姿勢に戒められる。

 

 

 

昨日は賛美集会であった。その中で新しい賛美

の歌を披露されたが、黙示録の4章9節からの

御座の前での祈りと賛美の光景である。賛美

しながら、不思議なのだが、旧約時代の族長た

ちも皆が揃って天の御座で、この世の光とは

別格の神々しい広間で、それぞれの人種たちが

声を合わせて神をほめ称えている光景が目の前

に浮かんできた。あくまで私の想像の世界であ

るが、賛美中にそのような体験をしたのは初め

てである。天国とは、黙示録が語るようにこの

世の明るさとは別格の光を放つ国であることが

この体験で現実味を増した。

 

 

 

今日も、自分の無力さを認め、がんばらずに

力を抜いて、恵みと信仰によって歩んでいこう。