ここ数年、教会生活を送っていた時さえも主との
時間が乏しかった私が、皮肉なことに教会を離れ
てからの方が、本来の信仰者としての歩みに近づ
き始めている。誰も見ていない中での信仰生活を
再開して数年が経過する。思い返せば、格好つけ
のクリスチャン生活だった。誰かに認めてもらお
うとする姿勢がギラギラしていて、祈るにしても
気合いが入りすぎて、実のところ自分が全く恵み
を受けていなかった。誠に表面的な荒削りの信仰
でよく神と自分を欺いてきたことを反省している。
夜の部の聖書の学びを通じて、常々感じることが
ある。中川牧師の祈りには、気合いめいたものが
全くない。呼吸するかのように自然であり、これ
は相当個人的な神との密接な関係性の深さがある
だろうなと思わせる聖霊の働きさえ感じるからだ。
時々、別の動画で別の牧師が祈る姿も見ているが
なんとなく、形式的に感じる時がある。その違い
が最近分かるようになってきた。
祈りとは、呼吸のように生活の中で繰り広げられ
る神との対話であることがわかり始めてきた。
その中で、今日の学びはクレイが出エジプト3章
モーセの言い訳その2、1日1章は創世記23章だ。
モーセは誰の権威でイスラエルの民を導いたかと
言えばいいかのかを神に尋ねているシーンだ。神
は「私は在るという方が私をあなた方のところに
遣わされたといいなさい」と答えている。
この意味を理解するのに数年要した。「私は在る」
という言葉の中に凝縮する神の権威。何者にも
捉えられない全知全能の神の主権である。その神
に今の時代、イエスキリストを通じて対話ができ
るのだ。モーセだけではなく、信じるもの全員が
その特権に与ることができる。神の方法で進めら
れるには、人間の責務が伴う。御利益信仰とは
全く異なることを意識したいものだ。
創世記23章ではアブラハムが妻サラの埋葬のため
マクペラの墓をヒッタイト人から購入するシーンだ。
中近東の交渉というのは、本音と建前の振り幅が大
きいようで、口車に載せられると火傷することを
アブラハムは知っていたようだ。約束の地カナンの
一部であったが、彼はヒッタイト人に値段交渉で
値切ることを一切せず、それ相応の対価を支払って
土地も含めて購入している。先を見据えて投資する
ことの重要性をアブラハムの姿勢から学べる。
彼は、故郷のハランに帰省することもできたが、
信仰の道にはカナンしかないという決断をして
故郷を放棄している。信仰者には同じように選択の
瞬間が何度も訪れる。その時に果たして、アブラハ
ムのように霊的な視点で先を見据えた選択ができる
だろうか?そこに自分の霊性を貧弱さを痛感してい
る。
目に見える部分に左右されやすい私が、目に見えな
い霊性を選び取るには、神の言葉に触れ、学び、
知り、応答していけるように祈り求めるしかない。
静かに呼吸をするように神との対話をしながら、
今日も気張らず、頑張らず、力を抜いて恵みと信仰
により歩んでいこう。