日本人に贈る聖書物語の最終版を読んでいる。
ユダヤ人のメシアニックジューである
フルクテンムバーム博士の人生の足跡が綴られ
ているが、祖父母がポーランドの収容所で殺さ
れている。生々しい歴史から目を逸らさず信仰
生活の本質を彼の人生から学んでいる。
キリスト教という歴史は、イエスの生涯と同じ
で妬みによってねじ曲げられている。ユダヤ人
を排除しようとする流れは「反ユダヤ」であり
旧約聖書のアブラハム契約の「イスラエルを祝
福する者は祝福され、呪う者は呪われる」に沿
った歴史になっている。悪魔的な行いをしてき
ている人間は、それなりの裁きに遭っている。
これも聖書通りの流れである。ここに畏怖の念
が生じる。
今の時代は律法の時代から恵みの教会時代であ
るが、アブラハム契約というのは、今日も継続
していることを忘れずに過ごすことが重要である。
イエスキリストなる神様は第一にはユダヤ人のた
めの神であったからだ。異邦人の私は接木された
存在である。この霊的な流れが重要であることを
知った。
私にはまだ母教会が決まっていない。以前は
地域教会を選ぶにあたり、距離的に近いからと
か、人の勧めで選んでいた。教理が違えば
人生が狂う可能性もある。昨今は偽教師も多い。
牧師だからと安心もできない。この辺りは祈りで
備えていく必要性を感じている。その代わり、
ZOOMでおなじ教理で学んでいる同士の賛美集会
に毎週参加している。以前の私は音調でいい賛美
そうでない賛美と決めていた浅はかな信仰者だっ
た。今は断然、賛美の歌詞を重要視している。
聖霊に導かれた賛美か否かは、動画でも表れる。
魂に響くと、感情に関係なく涙が溢れてくる。
霊が共同体と共鳴しているように感じている。
これが、本来は教会の同士で分かち合いたい。
私の個人的な願いとしては「とりなしの祈り」の
賜物と生き様で信仰を表せるように求めている。
表舞台に立つのは苦手である。あがり症だからだ。
影の存在でありたい。とにかく目立たないことだ。
地味の中に溢れる力強さ・憐み・愛の人でありたい。
年齢と共に精神的な成熟さもついてくるように祈り
何にもとらわれない柔軟性の中で生きていきたい。