出エジプト記では金の子牛事件を学んでいる。
シナイ山でモーセが40日間ヤハウエなる神と
契約を交わしている時に、山の麓では待ちき
ず、変わり果てたイスラエルの民の姿を神が
モーセに伝える。時を同じくして山頂よりも
下に待機していたヨシュアは、戦の声がする
とモーセに伝えたが、彼の霊的洞察はそうで
はなく、宗教的な嫌な予感を察知していた。
幕屋をどう建設するかで最近まで学んでいて
時代をタイムスリップしてモーセと同行して
いるような心境で学んでいただけに、毎回
私の心は動揺している。特に金の子牛事件に
関しては、イスラエルの民の歴史問題だけで
はなく、私の事柄でもあるからだ。3年前は
同じように神社仏閣に偶像崇拝してイエスに
ことごとく背いた人間である。だからこの
箇所は、私にとって非常に耳が痛い出来事だ。
聖書が浅い理解だったときは、気楽だった。
イスラエルの民は結構、失敗だらけだなあと
他人事のように読んでいた。歴史背景を知る
だけで精一杯だったし、文脈に目を向ける気
も全くなかった。「へえ」「はあ」程度の浅
い聖書通読者であり、信仰者の端くれ程度の
人間であった。それなのに、最もらしい顔を
して信仰者の模範のように装って教会に行き
奉仕にも参加していたのだから、今となって
その時の自分の浅ましさ(軽率さ)を恥じる。
聖書というのは、学んで知れば知るほど平安
になるのではなく、自分の犯してきた罪深さ
が余計大きくなって苦しくなる時がある。
思い出さずに済んでいたことが、突如記憶が
鮮明に浮き出て自分のしてきた行為と聖書で
教える真理の乖離がズドンと胸に迫ってくる。
ずばり、金の子牛事件では、アロンの立場・
イスラエルの民の立場・モーセの立場・神の
立場と四通りの立場で考えさせる箇所である。
学びながら、バツの悪い心境で謝罪する自分
とモーセの怒りと彼が神に猶予を頂く為に
自分の命を懸けて命の書から名前を決して欲
しいと懇願する姿に、私はどうしようもない
心で取り乱していた。学びながら苦しいのだ。
そんな中での今朝の小淵沢オリーブ教会の
ウイリアムウッド先生のメッセージがまた
この心境とリンクしていたのである。ヨハネ
の福音書で、ガリラヤ湖に復活されたイエス
が、朝食を準備して傷ついたペテロを慰める
シーンである。3度イエスを知らないと言って
逃げ出してしまったペテロは、弟子としての
資格を失ったと落胆して、もう一度漁師として
出直そうと思っていた。ところが魚は釣れない。
ヨハネがイエスの存在に気が付き、ペテロに
伝えると、彼は一目散にイエスのいるところへ
向かうのである。落伍者としての自分を隠さず
イエスに駆け寄る胸中を思うと、私にも押し迫
まるものがあり、今日も涙・涙の礼拝だった。
イエスは落胆しているペテロをご存知で、個人
的に回復されるように会話する。その時に3度
私を愛せるかと問うシーンがあり、その愛とい
う言葉のギリシャ語が「友」であることを私は
知らなかった。イエスが求めるのは見返りのな
いアガペーに対して、ペテロはフィレオである。
イエスが十字架にかかる前、確かにペテロは
「あなたの為には命も捨てられる」と言い切っ
た。ところが、実際、自分の身が危うくなると
恐れのために「あなたを知らない」と裏切った。
私もペテロと同じ人間である。だからペテロは
不完全な愛である「友」を使っている。人間は
神のようになれない。この限界を教えられる。
人間は、自分の意思が強くてもどうしようも
ない局面に遭遇する。その時はじめて自分の
無知と無力を知る。そこからが、本当の信仰
の始まりなのかも知れない。落伍者からの始
まりは私も同じである。毎回、この箇所を読
むたびに心に迫るようになっている。神の計
らいはすごい。