幕屋に関して出エジプト記を学んでいる。

以前は自分の都合で、幕屋の箇所は真理とは

かけ離れていると飛ばし読みをしていた。

それは、栄養を無視して食事をしているような

行為であった。

真理の中心だけを教える牧師はたくさんいる。

しかし、真理とは一見遠のいているような聖書

の箇所からキリストの律法に関連して丁寧に教

えてくれる牧師は少ない。そういう点で、今は

ネットでしかも無料で学べるいい時代である。

ラビはいつの時代も選ばないと人生を狂わされる。

目立つ教会・聖書的ではない教会・愛を強調し

ながら律法的な歩みを強調する教会ではなく、

原理原則でユダヤ的に教え導いてくれる日本人

のための牧師と出逢えた人は幸いである。

私は、ハーベストタイムスに出逢えたおかげで

自分が救われた確信が持てた。そして神の本質

が2年目の学び直しの段階で分かり始めている。

信仰歴が長くても、本質的なことを知らずに

ダラダラ継続していても、内側からの感謝や喜

びとは程遠い立ち位置にいる自分に気付いている。

 

 

 

よく自発的に献金・自発的に礼拝という言葉が

この学びでは語られる。最初は「そんな人は特別

な人なんだろう」と斜に構えて聞いていた。とこ

ろが、学び続けていると、自分でも気付かない内

に(無意識レベル)で自発的な感情が芽生えてい

て、それが純粋に嬉しいのである。例えたら子供

が、明日遠足に行けるとワクワク待ち構えている

心境と似ている。なるほど、子供のように純粋な

心(鳩のように純粋であること)は心が健やかに

なることだと分かり始めた。

 

 

 

親からの愛着問題で苦しみ、教会での傷で苦しみ

挙げ句は伴侶との別れで苦しんだ。自分で撒いた

種とは言え、刈り取りの最終はとてつもない苦し

みである。そんな時は、定番の「神様はいない」

という短絡的な判断をしやすい。かくいう私も

その一人であり、十数年信仰から離れて聖書も

クローゼットの奥の棚に閉まった。神様にとって

良い子でないと恵みや憐みは頂けないのだと思い

ひねくれた。何だ、人間界と同じであれば神社仏

閣に行こう、と堕落して毎月1日にそれなりの金額

を添えてお参りし、深々と偶像神に頭を下げて

自分を案じていた。その時には全く罪の意識がなく

それは、イスラエルの民がモーセが山の頂上で神様

から十戒を授かっている時に、金の子牛を造って

礼拝している姿と同じであった。完全に霊的堕落に

陥っていた時、神は創世記3章で最初のアダムに

語られた言葉を私に向けていたと思う。

 

 

 

「あなたは何処にいるのか?」

 

 

 

幕屋とは神様の栄光が宿る場所である。これが後に

神殿となり、イエスそのものになっていく。

その過程で幕屋のできる過程を丁寧に学び進めてい

る中で中川先生がこの言葉を語られたとき、私は

ハッとした。

私も自分の罪の罪責感から木の茂みに隠れて神様か

ら見えないように無意識に遠ざかっていたのかも

知れない。

しかし、神は果たして見えなかったのだろうか?

そんなはずはない。遍在の神であるからだ。

それなのに

アダム(私)が自発的に自分が犯してしまった罪を

告白しやすいように神様が語っているこの

言葉の真意は深い深い人間愛であるに他ならない。

泣けてきた。

この数日間は泣き通しの学びである。テッシュの

消費が半端ない。私のあの時、あんな時にも神様は

上からそんな言葉を語られていたのか。人は条件

付きの愛ではなく完全な愛に触れた時に心が洗われ

ていく。恩着せがましい愛情も心が冷えていくもの

だ。このあたり見極めは重要であると思っている。

神の愛を味わうためには、聖書66巻を知ることだ。

聖書の言葉を理解するには、学ぶ以外方法はない。

そして、表面的な愛情や惑わしに騙されないように

自分の身を守っていく必要がある。邪悪な時代に

あって益々、霊的な目を研ぎ澄ます時がきている。

 

 

 

形式的な信仰者から、本質的な信仰者へ変わるため

に聖書の学びを継続していきながら、神の愛に触れ

続けたいと思う。