体内時計が5時過ぎに私を起こす。スクッと

起きて、窓を全開。お香を炊いて玄関から

空気を浄化することから日課は始まる。

手帳で今日の予定を確認しながら準備をし

競歩へ出向く。季節が秋に移行してからは

夜明けが遅い。薄暗い中でも、静寂な空気は

鼻の粘膜から脳細胞に至るまで「起きろ!」

と号令がかけられたかのよう。澄んだ空気が

覆う。耳にはヘッドホンから賛美が流れる。

同じ時間、夜明け前の薄暗い中でも人の動き

車の動きはすでに開始している。それぞれの

日常を横目で見ながら、声には出さないが

心の中で「おはよう御座います。今日も会い

ましたね」と囁いている。ある人はジョギング

ある人は犬の散歩・ある人は出勤中だ。

研ぎ澄まされた感覚が、この時間戻ってくる。

五感が非常に敏感になるのだ。そして瞬間的に

「あ!この香り、幼い時にどこかで・・・」と

思うこともある。遠い昔の自分の過去が瞬時に

朝の時間に蘇るという不思議な体験をしながら

からだは全身の血液が巡り始めている。

 

 

 

「イエスの贖いの血」と唱えながら自分の血液

の滞りを対比していた。運動一つとっても血液

の質が全く異なることに畏怖の念を抱く。

イエスは全人類の霊的な命を保障するために命

をかけたのに対し、私は自分の血の管理さえも

追いついていない。なんてこった!どこまで

追求しても、学んでも私は罪人以下の人間だ。

薄暗い道中に突如、変な人はいないかと不安が

よぎる時、上を見上げる。翼のように手を広げ

夜も眠ることがないイエスが微笑んでいるかの

ような感覚が確かにあった。日常のこんな時も

イエスは私を守ってくれている。この感覚をど

う表現したらいいだろう。平安に包まれていて

思わずニヤつく私がいる。側から見れば怪しい

女そのものであるが、なぜか嬉しいのである。

 

 

 

競歩中にポツリポツリと電気が灯る。そして

プーンとパンを焼く匂い・味噌汁の匂いがど

こからか漂い始める。同じような日常がここ

にも在るんだなと思うと、生活感そのものが

愛おしくなる。何もない日常の中にこそ幸せ

が溢れている。汗ばみ始めた頃に自宅に到着。

競歩が終われば、足裏刺激をしてヨガをする。

ほとんど肉体が勝手に日課を取り組むように

私は造り変えられている。自分の意思とは逆

の面倒臭いことをあえて継続している。いや

継続させられている。心は「またやるの?」

と言っている。霊が「やりなさい」と言う。

 

 

 

一人暮らしであれば自分勝手に好きなものを

食べられる。ところがそうはしていない。体

に良い栄養素を考えた献立を毎回準備してい

る。手間暇がかかるし、時には美味しくない。

それでも自己管理を導かれている。山奥の

仙人が食べるように食事を食べながら肉体の

変化を味わっている。食事が済んで2時間後は

筋トレである。これも毎日の日課である。

過信は禁物、毎日コツコツ見直しながら鏡で

全身の変化を観察する。あれ?チーターのよ

うに小さいお尻ではなく、カモシカのように

か細い足ではないではないか。それどころか

筋肉が付いて逞しくないか?どうりで体重が

極端に減らないわけだ。しかし体型さえも

私の計画ではなくなっている。全ては神様の

計画に沿う肉体になるように求めている。

 

 

 

余りにも体裁主義で中身が空っぽだった私は

卒業である。外面よりも中身の充実を優先し

た人生計画が今後も続いていくのである。

それでも、神様はお洒落を愉しむことを理解

してくれている。外側と中身のバランスを今

日常を通して学んでいる。