私はコミュニケーションが苦手である。
おそらく発達障害だと思っている。
若い時から人とは違う視点で物事を考えている
ためか、非常に生きにくい。
無理して世間一般の人間と同じように振る舞っ
ていた時の空回りは、振り返ると痛々しい。
孤独を恐れての行動だったのだろうが、聖書を
本格的に学ぶようになってから、神に創造され
た私自身を自ら汚していたことに気付かされた。
私はもはや私自身の意思ではなく、神に選ばれ、
買い取られた側だから、自らを着飾る必要も、
誤魔化す必要もないのだ。余計なことをして
きたために疲弊していたのだと振り返る。
この地上に、一人として無駄な人と呼ばれる
人は存在しない。全ての人々が神の摂理の中で
生かされている。尊い存在であることに気付くと
自分を管理することが、神との共同作業に思えて
粗末に自分を扱わなくなってくる。
私は家庭環境に恵まれなかった。そのため著しく
自己肯定感が低かった。自分の身を置く環境は
多大な影響を及ぼしている。信仰者になっても
この影響は大きく、自分を粗末に扱うことに
慣れすぎて、スケープゴート役に徹することが
平和の道であると無意識レベルで思っていた。
ところが、一人になると虚しさが襲ってくる。
自分を欺いた行動は、自分の心と魂を傷つける。
信仰者であっても、自覚するまで同じ失敗を
繰り返す。自分の虚しさ・不甲斐なさを認めて
神に助けを求め、真理の書物である聖書を本気
で学び始めてから、私の内面での変化が起こる。
それまで、依存していた搾取型のスピ界隈や
引き寄せの法則等々が全て更なる心の空洞を生
むものであることにハッキリ気付くまでには数
年は要した。
無神論者やスピ界隈の人たちというのは、恐ら
く病んでいる。そのことを必死に覆い隠して生
きている。それが経済活動のためなのか、依存
性なのかは本人にしか分からないが、本当の意味
での平安な心とは遠い場所にいることは確かだ
ろう。
信仰的に生きていると、不思議と物欲とは遠く
なるからだ。人から何かを貰うことを考えない。
むしろ、人ではなく、神に喜ばれる人生を考え
動くようになる。間違っても商売的な思考には
ならない。時々動画でこの類の発信者の顔や声
を確認すると、傲慢と物欲のにおいが充満して
いい人相とは言えない顔立ちになっている。
曇りのない目ではない。これは、見る人が見た
ら分かるレベルである。騙す人も悪いが、騙さ
れる側にも責任がある。それは、霊的な病気で
ある。
出エジプト18章を学んでいる。モーセが裁き司
という祭司をしていく中で担いすぎる職務に関し
姑であるイテロが助言する箇所である。異邦人で
ありながらも、人生経験で助言するイテロの姿勢
にも全く「当て付け」や「威圧感」がない。婿の
信仰者としての姿勢に敬意を示しながら、仕事を
分散して周囲に頼ることを教えるのである。
また、モーセも姑の意見を柔軟に受け入れている。
神に祈りながら、姑の意見を通すかどうかを同胞
の民に尋ねている。ワンマンではなく、自分の
考えに固執するのでもなく、あくまで神と人とい
う括りで考えているため、どこまでも自分の地位
を誇ることがない。そこがリーダーとして立つ器
の度量が表されている。誰よりも熱心で、誠実で
基本的に仕える姿勢である。このバランス感覚を
聖書から学んでいる。かつて私がこのバランスを
欠き、ことごとく組織人生に挫折してしまった
ことを振り返っていた。原理原則を蔑ろにしては
人を率いていくことが出来なくて当然である。
健全な自己認識(自己肯定感)の上に成り立つ
信仰と愛の上に人間関係が構築されていくことを
求めている。不思議なことに表面的な虚しい名誉
優先の人たちとの関係性は自然消滅していった。
コロナウイルス騒動によって、本質的なものが
浮き彫りにされた点は私にとって有益であった。
そういう人間関係は今後からは不要である。
人の一生は神によって決められているとすれば
尊いものに目を留めたい。狂った自分の人生観を
変えて頂くためにも、聖書の学びは有益である。