出エジプト記15章を学んでいる。あの有名な

紅海の箇所はハリウッド映画がすぐに浮かぶ。

しかし聖書を学んでいると天地万物を創造さ

れた受肉前のイエスの栄光の表れが

いかに厳粛で、計画性に冨み、完璧であるか

御言葉を通して深く知ることができる。

パロの心を頑なにされたという言葉が何度も

出てくるが、これはもともとパロの心に天地

万物を創造された神様を信用していない性質

であるパロの責任と神の計画が「頑な」を

出現させていることが分かる。信仰生活は

一つ一つの神の言葉に従うか、背を向けるか

の連続である。今までの学びの中で、歴史観

だけに着目しすぎてきた。どんな流れで現象

が起きたのかに比重を置き過ぎていた。

 

 

 

ここにきて、モーセの霊的成熟度とイスラエル

の民の霊的幼子の格差を学んでいる。目に見え

る現象に囚われ過ぎると、人間はどうしても保

守的な思考に戻ってしまう。430年間の奴隷生

活を強いられたイスラエルの民でさえ、執拗に

追ってくるエジプト軍団が押し迫ってきたとき

民はモーセにつぶやくのである。目の前は紅海

である。神の命令はそのまま動きを止めず突き

進めである。しかし後方からエジプト軍が追っ

きている。絶体絶命の状況下の中で民の心は

「ああ!こうなるのであれば、奴隷生活の方が

よかった」と言うのである。目に見える現象が

余りにも過酷なとき、人間は判断を誤りやすい。

 

 

 

モーセは小牧師としての役割を大牧師である主

と共同作業で進めていく。突出しているのは彼

の信仰の目である。生きるか、死ぬかという

事態の中で冷静に神であるヤハウエに絶対的な

信頼を置いて、動じない姿勢は見習いたい。

 

「あなた方は恐れてはならない。かたく立って

主が今日あなた方のためになさる救を見なさい。

今日あなた方はエジプト人を見るが、もはや永

久に2度と彼らを見ないであろう。主があなた方

のために戦われるからだ。あなた方が黙しなさい」

(ガタガタ言わんで、黙って主の業を見なさい)

 

 

 

紅海が二つに割れる場面の背景には、当時の

イスラエルの民の生きるか死ぬかの人生劇場が

あり、そこでリーダーとして選ばれたモーセが

いかにしてイスラエルの民を導いたか、そして

どのようにして信仰の民へと変わっていくのか

を見る方に比重が変わっていた。学んでいない

民と学んでいるモーセが共に約束の地に行く過

程の中には、神様の計画である荒野での訓練が

予定されている。訓練は決して楽しいものでは

なく、苦々しい。しかしそのあとでオアシスの

ような体験も待っている。この交互の日々の中

で信仰が深まることを今学んでいる。

 

 

 

荒野は神の学校であるから、子供として見られ

ている証でもある。そう考えると嬉しい。

信仰者でも霊的に学び続けていなければ衰退し

てしまう。この箇所は現代のウイルス騒動の渦

中でも活せる教訓になった。