出エジプトの箇所を歴史的に把握していても

霊的な意味で理解出来ていなかった。この

歴史をユダヤ的な視点で学ぶことによって

聖書の文脈がより深く見えて来ると言うのは

大変な恵みである。救われた信者が奉仕云々

と燃えるよりも、専門的に詳しい人から聖書

を深く学び続けていくほうが、教会としての

役割が深まるような気がする。以前通ってい

た教会の動画を見て、愕然とした。主が中心

ではなく、牧師が中心となってあからさまに

命令している光景が映し出されていた。

動画で高評価も低評価もされていない。

見ているのは、教会関連者のみだと分かる。

この教会を退いて正解だったと思った。

 

 

 

日本には教会へのつまずきから隠れ信仰者が

相当数いると思う。聖書全体を把握していな

い先から按手を受けて、仕事以上に奉仕活動

を命じられ、心身ともに疲れ果てたことを

振り返っていた。無知の結果、信仰者である

ことさえ後悔したこともあった。指導者の

責務は大きい。そして、全ての教会が安全と

は言えない時代である。毒麦が混じる指導者

が存在する。誤った教理で信者を脅して御霊

の働きを悪用して、出エジプトのパロのよう

に霊的に頑ななのである。いつの間にかそう

いう教会はホームレスの人ばかりになってい

る。それが慈善活動と思ってることがある種

恐ろしい。本当に神の御心なのだろうか?

 

 

 

今回、ウイルス騒動で得たものは立ち止まっ

て人生そのものを振り返る機会である。自分

の身の置き方・食生活・人との関わり方から

信仰に至るまで、数年間モヤモヤしていた

問題が全て浮き彫りにされて、強制的に向き

合わされている。膿みが出されているのだ。

この苦しみは一見すると痛みを伴うものであ

るが、その痛みさえも、今回は清々しく感じ

ている。やはり、逃げても問題は追ってく

るのだ。そして全て無関係に見える生活習慣

と信仰や人間関係に至るまで実は繋がってい

たことにも気が付いた。世の中のように表と

裏があると、信仰的には生きにくいのだ。

 

 

 

表も裏もなしで一直線で潔く生きていく覚悟

を私は試されているようだ。捨てるものは

潔く処分して、受け入れるものは例え痛みを

生じようとも、受容することを。醜い自分を

認めて、その上で人ではなく、神に求める心

を試されている。その前提となるのが、心身

を整えて健康を管理することである。課題が

山積みであるが、モーセやアロンが神の命令

に従い続けているように(現在7章学び中)

これは自身の人生観でもあるという視点で

自分にプランされている道を歩んでいきたい

と思う。自分の思いではなく、神の計画に

従えるように日々、聖書を学びながら進んで

いこう。