昨日は小淵沢オリーブ教会の礼拝動画で語られ
たヨブ記1章の礼拝メッセージ・ハーベスト
タイムズの礼拝動画で語られた申命記28章で
語られた神の祝福と呪いについて、多くの恵み
を頂いた。最近は、涙もろくなり、気が付くと
涙が流れている。以前の私ならば想像できない
現象である。私が救われた当初、十字架上での
イエスの死を通して私の罪が赦されたのだと
何度も聞かされて、そのまま信じるに至った。
しかし、最近になって私は深いレベルでその
イエスの十字架の死に込められた父なる神の愛
を軽視し過ぎていたという点に気付かされた。
人間は生まれながらにアダムとエバの罪によっ
て原罪を背負って生まれている。この意識すら
子供の時から教育で学んでいないため違和感が
ある。イスラエルのように幼少期から神の認識
をもった教育が浸透していれば、いい意味で神
を畏れる歩みをしていたかも知れない。人間が
造り出した偶像の神社仏閣の神を拝する文化に
どっぷり浸かっていた私も、今となって思うの
は、それ以前から父なる神に選ばれていたとい
う憐みと愛を受けていたことである。神という
お方は、自ら創造された人間をとことん愛して
いるようだ。ヨハネ3章に記されている通りに
ひとり子を遣わして身代わりとなって命を捧げ
るまでに愛してくれているのである。
そのことを学んでいないために無知で過ごす人
の最近の風潮は度を超えている。神の怒りの杯
が限界に達しているように感じてしまう。この
神の愛を心から理解できた時、涙を流して喜べ
ない人がいるのだろうか。込み上げてくる思い
が溢れ出てしまって嗚咽である。人が死んで泣
く嗚咽と正反対の感情である。嗚咽するほどの
愛情を感じたときの人間の心には、多種多様の
呪いからの解放がある。一気に放出されるのだ。
私たちは、理不尽なことに対する怒りや不当な
扱いでさえ怒りを静めることに苦労する。感情
的になって失敗する生き物である。この地上で
一粒の点にしか過ぎない生き物でさえ、この心
を持つのに、全世界を統治する神様の目でこの
世の中を見たら、どう映っているだろうか。
昨日の申命記の28章の呪いの箇所に値する。
昨日のヨブ記の1章の試練の箇所に値する。
その目で聖書の言葉を受け取って初めて神の心
が理解できることを知った。流して読むだけでは
理解出来ないのである。霊の目を開くとは聖霊の
助けを得ながら読むことである。
ゲッセマネの園でイエスがペテロとヨハネに
「目を覚ましていなさい」という言葉は今の
時代に必須なメッセージのように思えてならない。
まもなく、イエスは地上に迎えに来られる。
ある人は、どさくさに紛れて今が艱難期だと
動画配信ライブで公表していたが、これもまた
無知の愚かさのなす言葉である。本人はイエス
を信じていないのに、黙示録だけ引用する人で
あると言う。こういう偽預言者が今後は増える。
しかし、こういう類の罪人でさえ最後まで神は
救われる機会を与えているのである。聞く耳が
ある人は聞くがいいとは正しくその通りである。