気象兵器による大雨被害によって感情を揺さぶ
られるのではなく、終末論通りの世の中に進ん
でいることを噛みしめながら歩んでいる。
ワクチン騒動も、気象兵器も、同調圧力問題も
発端を辿れば「人間の傲慢」が生んでいる。
創世記の最初のアダムによってもたらされた
原罪のなす有様が黙示録に繋がっていることを
知ると、全く動じなくなる。創世記の始まりは
「最初に神が天と地を創造された」とある。
創世記の終わりには「ヨセフは110歳で死んで
エジプトに置いた」で終わる。光から始まって
死で終わる創世記の一連を見ると、聖書の流れ
がぼんやり見えてくるではないか。次のページ
からは、既にイスラエル人は奴隷で苦しめられ
ている場面から始まるのである。ここから神の
新たな救出歴史物語(出エジプト)が始まる。
ヨセフの生涯というのはイエスの型と言われる
だけあって、純粋・誠実・愛・正義・信仰に
溢れている。12人の兄弟の中でも突出している。
17歳で兄弟から妬まれて売られたヨセフが
実は神の裏舞台では、7年に及ぶ飢饉から救う
ために選び出されていることが分かる。わずか
17歳だった頃のヨセフを振り返っても、決して
根性が腐った場面はない。夢で啓示された神の
計画を理解して、その時その時を忠実かつ信仰
によって歩んでいるのである。そして神の恵み
の深さを忘れることなく、常に謙遜であるのも
ヨセフの凄みである。一切、誇らない(高ぶら
ない)点においては学ぶ点が非常に多い。
聖書の中ではパロへの伝言に関しても、仲介者
を通すなど、ヨセフの高潔な性分が見える。
年齢を重ねると、人は経験年数を過信して怠慢
になりやすい。加えて、親しい中にも礼儀あり
を忘れやすい。この点においては自身への忠告
として受け取った。
ヨセフが兄弟たちと再会したのが38歳の頃。
そこから父ヤコブと共にエジプトの地で17年
間共に過ごして、147歳になった父の葬儀で再
び兄弟間の「和解」の問題が再浮上する場面が
ある。偏愛のヤコブの人生も振り返れば紆余曲
折だらけで、聖書を学ぶたびに自分ごととして
その問題に一緒に対処してきたような感覚があ
る。親子でも性質が異なるものである。しかし
ヤコブとヨセフの変わらぬ点は、神への従順だ。
50章では、父ヤコブの死後に守りの盾がなくて
再度ヨセフが売り飛ばしたことを恨むのではない
か?と心配した兄弟たちが、父の遺言と偽証して
ヨセフに赦しの言葉を述べる場面がある。その後
ヨセフは、その言葉を聞いて泣いたとある。これ
は、嬉し涙ではなく、悲しい涙である。既に56歳
になっているヨセフが、過去のことを恨んでいる
はずがなく、和解していたと思っていたのに実は
それは父ヤコブの手前だったと知った時の落胆。
悲しみのヨセフの心情が伝わるようだ。
しかしその後、彼は兄弟たちに優しく愛ある言葉
で本当の和解へと導くのである。ここがイエスの
姿と重なる。仮にも、一旦救われた信仰者が何か
の理由で許されていないと思い込み背負い続けて
いるとしたら、イエスは涙を流しているのだ。
やはり、平安がポイントである。平安なくしては
人は的外れの行動に出る。赦されたという確信は
大事である。形式的な信仰では(礼拝では)平安
は得られないことを示唆している。心を尽くして
思いを尽くすということが、平安にかかっている
ことを思わされる。神様と個人的な信仰を堅く据
え、その上でエクレシアに加わると言うのが理想
である。この点においては、祈り求めている。
族長たちの生き様を通して、生き方を学ぶ旅は
今日から出エジプト記へ移る。ヨセフからモーセ
へ変わる歴史をしっかり学んでいきたいと思う。