自重トレをして3ヶ月ちょい過ぎた。体重では
55キロが51キロに減ってきている。体型では
6年前のキツキツの衣類がようやく履けるよう
になってきている。節約するには、痩せること
も必要な時がある。余計なものに振り回されな
いためには、今与えられているもので満足して
活用できるように自分を変えることにしている。
身長160センチであるため、年齢と共に引力に
逆らえない弛みを考慮すると、チョイ痩せくら
いでバランスがとれる。目標は50キロだが、
48キロ弱になれば、7年前に購入している
ジーンズも余裕で着用できるだろう。とにかく
余計な買い物をしないことを意識している。
衣類も食事もシンプルかつ最低限でいいと思う。
身だしなみも清潔感を意識して、最低限でいい。
ヨセフ物語を学びながら、自分の人生を振り返
っている。この10年間の私のテーマは「別れ」
であったからだ。不可解な出来事の中に神様の
摂理を考える余裕も失われた。感情に左右され
自暴自棄になり、信仰から遠く離れていた。今
思えば、サタンの罠である。それほどに私には
何かしら神様の計画があったのかも知れない。
頓挫した所からの再出発であるが、ヨセフの歩
みで共感出来る点は、身内からの攻撃である。
この痛みは私も痛いほど共感出来る。だから
学んでいて、胸が痛かった。ヨセフのように
壮大な計画が私にあるとは思えない。しかし
日常は過ぎていく。その狭間の中で、希望を
見つけるのは易しくなかった。聖書の記述の
歳月の経過は驚くべき長さである。私にとって
数年が、聖書では22年である。家族間の癒しに
22年の歳月を要するのであれば、誰かが死んで
いておかしくない。この時代のように長生きし
ないからだ。心の深い部分ではヨセフのように
赦したい思いがある。しかし、悔い改めの確認
ができないのであれば、却下である。神の計画
を確認できたヨセフだから、この展開がある。
私にはまだ、葛藤がある。イエスのように直ぐ
赦す境地には至れない問題を抱えている。そし
て、この家族間の問題というのは、同じ体験者
でなければ心情を理解するのは難しいと思う。
ユダがヨセフにベニヤミンを巡って弁明する
場面・兄弟全員に自分の正体を知らせる場面で
私も泣いた。長年、父親の偏愛が招いた兄弟間
の嫉妬問題によって、それぞれの人生が狂わさ
れば、その運命を受け入れるしかなかった彼ら
の戦いが幕を閉じようとしている空気が伝わっ
てきた。その表情が、実在的に浮かんできた。
自分と重ねて想像しただけで私もヨセフ同様に
制御できない心情になった。特に親から愛情を
確認できなかった子供の苦しみは成長過程で不
憫である。この問題が結婚しても、ついて回る。
子供を産まなかった理由もそこにある。自分と
同じ分身を持たないためにそのように選択した
とは言えなかった。
ヨセフと父親の再会の部分では、自分の親とは
違う状況に涙が出た。本当の親子とはこういう
再会を果たせるんだな、と。想像の中で私には
イエスという父親を思い描いている。大人の私
が唯一、子供の自分に戻れる瞬間である。日々
のデボーションの中で涙ながらに語っている。
私の人生はどうなるのですか?慰めを請いなが
ら、精神的に乗り越えていく力を頂いている。
イエスは全能の主である。取り繕う必要がない。
「すべて重荷を負うて苦労している者は私の
もとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。
私は柔和で心のへりくだった者であるから
私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれ
ば、あなた方の魂に休みが与えられるであろう。
私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」