ヨセフ物語を学んでいる時、私は子供のような

心境になる。シンデレラストーリーの一つのよ

うだ。自分の置かれた境遇と重ねながら学んで

いるため、不運の箇所になると思わずため息が

出る。ヨセフのように10代のうちから揺らぎな

い信仰心を確立しておくというのは、試練を

乗り越えていく秘訣であると、40代半ばになり

思う。当然ながら私の17歳の時とは天と地の違

いがある。パロの自衛長ポティファルはエジプ

ト人とあり、異教徒の神を崇めている人である

がヨセフが側にいると、神々しさを感じたのだ

ろう。それもそのはず、この箇所は何度も「主

がヨセフと共におられた」と書かれている。

表面的には奴隷という立場で散々なのだが、彼

はひねくれずに、置かれた場所で使命を果たし

ている。

 

 

 

恐らく、爽やかな魅力を放っていたのだろう。

ポテイファルの妻がヨセフをしつこく誘惑して

くるほどである。今でいうセクハラである。

恐らくポテイファルは仮面夫婦だったのかも

知れない。妻はヨセフに権限を使って、寝るす

るように迫るのだが、彼は礼儀正しく断ってか

ら逃げるのである。思い通りにならないことに

怒った彼女は、ヨセフが自分を襲ったのだと偽

る。奴隷に売られる前はヨセフの長服が嫉妬の

要因であったがここでは上着が誘惑した証拠品

として使われる。「衣」のトラブル続きである。

彼女の行動を見ていると哀れに思う。満たされな

い心を情欲で補おうとするあたりは、現代もあり

えることである。

ここに、サタンの存在を認めなければならない。

一時的な快楽・一時的な酔い・一時的な優越感の

手法を通して、サタンは常に信仰者を狙ってくる。

 

 

 

偽りの証言を彼女から聞いたポテイファルはヨセフ

を監獄の中に入れる。しかしもともと彼は死刑執行

できる権限を持つ男である。ここで、ヨセフが仮に

誘惑をしたと思えば、死刑しているはずである。

これは、この妻が粘着質の面倒な女であることを

知っているため、敢えて妻の面子を保持した上で

決断を下したのだろう。私がヨセフであれば

「この女性は嘘つきです」と言わずにはいられな

い。しかしヨセフは理不尽を受けて何も言わない。

この高潔さを求めていきたいと思った。

 

 

 

更に状況は理不尽な中で、ヨセフにとって下へ

下っていくわけだが、ここでもヨセフは重宝され

重役に抜擢されていく。なぜなら、主がヨセフと

共におられるからである。何よりもヨセフは自分

がアブラハム契約の継承者であることを忘れずに

自分の霊的立ち位置を明確にしているため

動じない。

「神が私と共におられるのだから、必ず祝福され

る」という信仰心が彼を根底から支えている。

これは現代でも適応できる部分である。誰が何と

言おうと、どんな悲惨な状況下であろうと、神が

引き上げてくれる」という確信に満ちた歩みであ

る。この霊的な視点を確立させていなかった私は

随分と遠回りをしてきた。知ったつもりの机上の

知識では人生が停滞したままであった。理解して

咀嚼して、日常生活の指針となるように学び続け

ていきたいと思っている。

 

 

 

イエスもこの地上に下って、しもべとして仕えて

理不尽な状況下の中で、下へ下へ下り、十字架の

死にまで従って、墓に葬られその後で天に挙げら

れ復活するのである。

ヨセフは、この後もう少し下ったあとで大統領に

なるのであるから、二人の類似点は多い。これが

歴史として引き継がれているのだから、凄いこと

である。ヨセフに起きたことは、イエスに起こる。

イエスに起きたことは、私にも起こる。

従って、ヨセフの物語はわたしの物語である。