1953年の映画「聖衣」を観ている。以前BS
で途中まで観ながら断念していた。Amazon
で見つけて続きを観ている。聖書を知らなか
ったらまず見ない映画である。ここのところ
特にイエスに突き動かされるように、聖書物
を見る。
私という人間は20代信仰の門を叩く・30代は
教会で弟子訓練そして挫折・30代後半堕落人
生40代中盤、信仰敗者復活という流れである。
30代後半から40代前半は、得体の知れない恐
れに縛られ、偶像崇拝にも頼るほどであった。
だから、ペテロがイエスを3回知らないという
場面が自分と重なる。そしてその時に鶏が鳴く
時に、イエスがペテロに向けていた眼差しから
「私はあなたがこうなることを知っていたよ。
でも、信仰がなくならないように祈っていたよ」
と感じたのである。毎回、このペテロの姿は私
であるため、泣けてくる。そんなペテロがこの
映画にはユストと共に登場しているのである。
復活のイエスと対面して、ガリラヤ湖で3回主
と新たな約束を交わした後だろう。私の羊を飼
いなさいの命令を実行しているペテロである。
イエスを実際に十字架につけて釘を打った視点
で描かれているこの映画も、また罪責感に苛ま
れ悪夢にうなされ、イエスを信じるローマ兵と
して成長していく様が描かれている。使徒行伝
の100人隊長コルネリオのような魅力的な人物
である。
映画とあって見た目のいい俳優人を選別してい
るが、それ以上に心を打つ。20代の若いうちに
今と変わらない熱心さと、聖書研究で真理の中
を歩んでいたらと悔やむ。機会が与えられてい
ながら、活かせていないと時間だけが過ぎる。
国を動かすトップが霊的に堕落しているとその
下で仕える人間は感情に振り回されて大変だ。
これは現代も同じである。目先の国益・虚栄
に支配され、本質的な部分が盲目で節穴だらけ
であると、短絡的な判断により取り返しが付か
なくなる。こんな時代は、国民が真理に目覚め
創造主であるイエスに智恵を頂きながら歩んで
いった方がいい。そうすれば、取り去られるこ
とのない平安を得ることができる。目に見える
ものは一時的であり、目に見えないものは永遠
に続くからである。主は殺人者さえも罪に定め
ないからだ。また、そういう人のために来られ
た。信仰者は正しい人ではなく、赦された人で
ある。だから、自分の赦された愛のゆえに隣人
を愛せるようになるのである。
私の外側(外見)は間違えなく老化していく。
しかし外なる人が衰えても、内なる人は日毎に
新たにされている感じがある。栄光のからだに
なってメシア的王国を待ち望んでいるのだ。