ヨセフ物語の中で最も敬遠されている箇所が

創世記38章である。ヨセフが売られた同時期の

ユダの物語が約20年間分集約されているのだ。

ユダはヨセフを銀貨20枚で売った。

イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを

売った。そして信じられないのは、このユダ族

からメシアであるイエスは誕生していくのであ

る。罪人を赦すメシアの憐み深さが既に約束さ

れているかのようだ。この箇所はユダがヨセフ

を売った罪責感から家に居づらくなって一人で

家から離れるところから始まる。というのも

ヨセフが居なくなって、兄弟たちは自分たちに

父ヤコブの目が平等に向くのではないかと期待

したのかも知れない。ところが来る日も来る日

もヤコブは泣き通しで落胆している。その姿に

ユダは耐えられなくなったのかも知れない。

 

 

 

この気持ちは私にもわかる。親の心を独り占め

したいのは子供であれば誰もがそう願う。例え

成人しても、いつまでも親から必要とされたい

と思うのは誰もが同じではないだろうか。ここ

にヤコブの子育ての失敗を見ることができる。

そして一夫多妻制の悲劇がここにも表れている。

 

 

 

ユダが向かったのは、カナンの地(つまり都会)

であり約束の地から離れた低地であった。民族

的に避け続けた文化や風習が多い地である。

何よりも偶像崇拝がある地である。そんな地で

ユダはカナン人の女と結婚して三人の息子を持つ。

ユダヤ人が大事にしている道徳が次第に失われて

いく中で、神に対する意識も遠のく。これは今の

時代も同じである。私も信仰から離れた経験があ

るが、堕落していく過程はトントン拍子である。

気が付いた時には、何かしらの事件が起こってい

る。それが、ユダの息子である。

長男エルはタマル(ナツメヤシという由来)と結

婚するが、邪悪な人間であった理由で神から命を

取られた。そこでこの時代のレビラート婚に倣い

次男オナンが、花婿に繰り上げられたのであるが

死んだ長男の子供を産んでも、長男の子供に財産

権利が回り、自分には何の得にもならないという

理由で、この法律を破り肉体関係の途中で放棄し

た。(これがオナニーという語源になっている)

神は、放棄したことに対して命を奪われた。

 

 

 

三男がタマルの夫になるわけで、婚約するのだが

いつまで経っても結婚には至らない。二人の息子

を失ったことで、ユダにはタマルを不気味に思っ

ていたようだ。タマルは、自分が未亡人のまま子

供を持てないことを不憫に感じていた。

ここから相当の歳月が経過したと思われる。

そんな時にユダの妻が死ぬ。喪失感があった時に

ユダは羊の毛を切る者のところに向かう。テムナ

という偶像崇拝がある低地であった。このことを

タマルは人から情報を得て、身を覆い隠してある

傍に座っていた。この時代の人間にはこの姿でピ

ンときたようである。未亡人の格好ではなく娼婦

の衣装であった。ユダも寂しかったのだろう。

やぎの子供と引き換えに、この遊女と共に過ごす。

(後日、ヤギと交換するために当時の身分証明に

なる印鑑を預ける)

 

 

 

タマルは義理の父であるユダと肉体関係を持って

双子の子供を身籠るのである。これはタマルの

作戦でもあった。この3ヶ月後一人の人がユダに

嫁が姦淫して子供を授かったと告げられる。

ユダは自分の行動を棚に上げてこう言うのである。

「彼女を引き出して、焼いてしまえ!!」

これは現代でもよく起こる。罪を犯している本人

に罪の本質が見えていないという出来事である。

イエスの声が聞こえてくるようだ。

「なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら自分の目

にある梁を認めないのか」と。

 

 

 

タマルは証拠の品々を突きつける。そしてユダは

罪を認めるのである。このタマルから生まれる

双子の子供の弟からメシアの誕生に繋がるのも

何とも憐み深い神様の計画が感じられる。

不完全な人間を通して、神は栄光を表される。

ユダはこの体験を通して神に砕かれたのである。

ヨセフがエジプトで奴隷として仕えている間に

ユダもまた、低地でこのような出来事を通して

砕かれ、神の計画が進められていたのである。

 

 

 

38章を読むごとに、自分の罪物語として捉えたい。