子供に対する教育で、「型にはめる教育」は否定されがちだ。
子どもはのびのび、自由に。個性を伸ばそう——よく聞く主張である。
だが、型にはめることの何が悪いのか、私にはよく分からない。
子どもは白いキャンバスだ。どんな色にも染まる。
裏を返せば、放っておけば、何者にもならないかもしれない。
であれば、きちんとした型を示すのは大人の役割だろう。自由を与えるにしても、まったくの無指導で「好きに生きろ」では、どう育つかは想像に難くない。
武道では、動きにくくても、ぎこちなくても、まず型を徹底的に叩き込む。
それが体づくりになり、ひいては思想を形づくる。
一方で、武道にはこうした難しさもある。
基本的に一人の師匠に就いて細かく学ぶのだが、それこそ一挙一手一投足をまねる。
(武道の内弟子は、特に指導されないが、師範と常に一緒にいるので、勝手に強くなるらしい。)
ところが合同稽古に行くと、他道場の先輩や師範がまったく違うことを言う。
-右手は上にしろ/いや下にしろ
-流れるように/いやメリハリをつけて
-拳に殺気を込めろ/いや込めるな
誰もが自分の型を良いと思い、その型に人を当てはめようとする。
なかには、どう考えてもこれは間違えているだろうと思うこともある。
もっともこれは本当にありがたいことだ。
自分が修行の上気づいたことを惜しげもなく教えてくれるのだから。
その情報の渦中で私たちは悩む。「師範によって言うことが違う」と。
しかし、多様な教えに触れることで、根っこで共通しているものが見えてくる。
それを見つけ出し、自分の中に大事に育てていく過程こそが、上達の道なのだ。
子どもの教育も同じだ。型にはめること自体は悪ではない。正しいと思う型は、遠慮せず伝えるべきだ。
ただし同時に、自分自身の型も一生を通じて変わり続けることを伝えたい。
(偉い師範ほど、昨日と今日で言うことが違う。成長の速度が違うのだ。)
そして、一人の型だけに閉じないこと。
できるだけ多様な人から学ぶ機会を用意する。中には合わない型、未熟な型もあるだろう。
それも含めて見せることで、子どもは選び取り、共通する本質を抽出する力を身につけていく。
結局のところ、型は自由の敵ではない。
型は、自由を機能させるための足場だ。
多様な型に触れ、本質を見抜き、必要に応じて型を更新する。
その往復運動の中でこそ、個性は太く伸びていく。