携帯電話にカメラ機能がついてからというもの、写真との付き合い方は大きく変わってきたように思う。

それ以前は写真を撮ることはそれなりの準備を要していた。

カメラが趣味の人間でなければ使い捨てカメラを買うとか、箪笥の奥に転がっているフィルムカメラを探し出して、フィルムを購入するとかしていた。

また写真を撮った後も写真屋さんにフィルムを出して現像し、アルバムにファイリングして日付やコメントを書き込む作業があった。

そうして作られたアルバムは大切に保管され、冠婚葬祭など親族が集まる場に引き出される。

故人をなつかしんだり新郎の小さい頃のエピソードを語るきっかけになっている。

こう考えてみるとカメラ趣味でない一般人の写真との付き合い方は、これから失われてゆく文化の一つでありヴァナキュラーと呼べるものかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%96%87%E5%8C%96

 

フィルムは枚数に限りがあるし、値段も安くはない。

予備をたくさん持っていけばかさばるので、写真は人生または生活の結節点を記録する側面が強かったのではないか。

たとえば家族旅行であれば、自宅を出る前、道中の食事、観光地、宿といった要所要所での記録が主となる。

そしてそれらの写真は、未来の自分たちに向けて記録しておくものであったように思う。

旅行から帰って現像に出した写真は、まず旅行を振り返るために家族で眺めるだろう。

また遠い将来、葬儀の後で故人を懐かしみながら親族が見るものだ。

手紙とともに友人へ送る場合もあるだろう。

いずれにしても不特定多数の顔も知らない相手に見せることは想定されていなかった。

あくまでも顔を知っている、現実に付き合いのある人間に見せるための物であった。

現在の私たちはスマホで手軽に写真を撮ることができる。

旅行の記録、毎日の食事、友人との自撮り、メモ代わりに。

自分のために撮ることもあるが、多くは他人と共有する目的に供されるのではないか。

写真を通して「私はこれが好き、私はこんな人間です」と発信するためだ。

それはSNSを通してされることもあれば、スマホのカメラロールを相手に見せながらされることもある。

写真を撮る手段の変化が、誰に見せるかという意識の変化をもたらしたと言えるのではないか。

さて、この話の落としどころはどこだろう?

現在の他人ではなく将来の自分のために写真を撮り、保管しよう?

自由に写真を撮り共有し、自分のことを積極的にアピールしよう?

そんなことはすでに多くの人が考え行動している。

わざわざ声を上げるのも今更感がある。

 

私が考えるのは、機材が常に人を縛っていることを認識していたいということだ。

デジカメの普及以来撮影枚数の縛りは実質無くなった。

撮った写真をすぐに確認できるようになった。

インターネット経由ですぐに他人へ写真を見せることができるようになった。

現像やフィルムにかかるお金がかからなくなった。

 

これらの恩恵を考えるとき、「制約からの解放」であるように感じる。

しかしその実、私たちはスマホとインターネットによる撮影→共有というスタイルに縛られている。

機材が与える人間への縛りが形を変えただけである。

今後新しいデバイスが普及し、写真との付き合い方が変わることもあるだろう。

スマホをポケットから取り出しカメラを起動する作業が不要になるかもしれない。

だがそれも「制約からの解放」ではなく「別の形の制約」となるだろう。

 

なにも制約が悪者であると主張したいわけではない。

和歌や俳句のような定型詩は、言葉の使い方に制約を与えることであらたな表現方法を生み出した。

また自由に表現することは、初心者にとってとても難しいことだ。

なにかしらの標語を考えるとき、全くの自由律で書くよりも575の縛りを設けたほうがいろいろとアイデアが生まれるものだ。

交通事故防止の標語が馬鹿の一つ覚えみたいに575で書かれているのがその証拠だろう。

ただ制約がどんな形をしているのかを把握しておくことは必要だ。

表現に行き詰まりを感じ、もっとひどい時は息苦しさを感じることがある。

そんなときは「いまどんな制約でやっていたんだっけ」ということを思い出せたら、それを取り払うことができる。

そうすればすこし呼吸が楽になることもあるだろう。