宗教関係の話が好きでその手の本をときどき読んだりする。といっても体系だった宗教学や神話の類より、所謂民俗学といったふうのフィールドワークで集めた話をつまみ読みするのが楽しい。ずっと前に読んだ本で「なぜ日本人はお賽銭を投げるのか」といったようなタイトルのものがあった。タイトルもあやふやなら出版社も著者名も覚えていない。無論メモなんかも残していない。そればかりか「なんでお賽銭を投げるのか」という問いに対する答えも覚えていない。覚えているのはぼやっとしたタイトルだけで、これではとても読んだことにならないだろう。それではなんだか悔しいので、ちょっと自分で考えてみた。考えてみたら3つの説が浮かんできたので書き留めておく。

 

①辞書に載っているから

新明解国語辞典第八版で「賽銭」の項を引いてみる。

「神仏に参詣した時に備えるお金。「ー箱にーを投げ入れる」」とある。

用例で投げ入れているので投げ入れるべきである。

故に我々はお賽銭を投げる。

 

②サイコロの銭だから

すごろくやなんかで使うサイコロは「采(サイ)」とも呼び「賽」の字を当てることもある。つまりお賽銭とはサイコロの銭、賽の銭である。賽は投げられるべきと考えるのが人間のサイコロジーであろう。

故に我々はお賽銭を投げる。

 

③賽銭箱に喜捨とかいてあるから

お寺さんなんかに多いが、賽銭箱に大きく「喜捨」と書いてある。喜んで捨てよの意味である。もし「哀捨」とあればため息をつきつつ小銭をポトポト落とすようにするだろう。「怒捨」なら箱のへりに人差し指中指で小銭をバシン!と叩きつけ「もってけドロボー!」と叫んだのち両肩を怒らせて踵を返した中年オヤジは石灯篭をケトばして帰るだろう。そこで「喜捨」とくればやはりうれしがってお金を捨てなければならない。自然、小銭は放物線を描いて箱に収まるべき運命を帯びてくるのである。

故に我々はお賽銭を投げる。

 

さて、以上3つの説を御覧に入れたがお気に召しましたでしょうか。

こんなくだらない文章に時間を費やすのはもうやめにしましょう。

インターネットやめろ。