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ブログ遊楽山荘aokiyaー街場と山里の暮らしのひとり言

新潟市街地の自宅と長岡市の山里の古家での暮らしを日記風に綴っています。遊楽山荘は、蓬平温泉に隣接する小集落にある古家で地域交流ボランティア・結まーる新潟の活動の拠りどころとしています。(2021/4以前の記事はameblo.jp/aosen1201/)

 先週、妻を伴って長岡の古家「遊楽山荘」の雪かきに行ったが、周囲のごく一部しかできなかったので、運動を兼ねて一人で出向いた。1週間でまた、30cmほど積もったので、結局、前回雪かきした箇所しかできなかった。しばらく週1で雪かきに通うことになりそうだ。10分ごとの休みをはさんで、約3時間ほど作業をした。途中、2件隣の94歳の一人暮らしのおばあさんが顔をみせてくれ、ちょっとした話ができた。私よりずいぶん元気そうで、ほっとしたし、まだ70歳でへたばっていられないと気力をもらった。ところが、帰り支度に一息ついたら、目の前が白ずみ、焦点があわなくなった。まさか、夏の熱中症の兆候ではないか、急遽水分を補給し、雪で首回りなどを冷やしてしばらく休んでいたら、1時間余りでほぼもとに戻った。帰りは高速をやめて、ゆっくり国道で自宅に戻った。夏場は、屋外の作業を頑張って続けると、同じような症状が起きるので、脳の検査を受けた方がよいと言われたことがあった。妻や子供たちも心配してくれて、作業は一人でいくなと諭されているが、どうも体力やリスクの限界が分からないので、こうなってしまう。もっと慎重にならなければと思う。

 

                     右は上越新幹線(上り)、左は山荘、蓬平温泉、山古志方面

                    山荘の裏山、ここはほぼ雪崩は発生しない

                    山荘前の旧県道、左側は太田川、信濃川に注ぐ

                    道路わきのポールの下の赤線は1m、上は2m

 昨年6月足骨折で手術、退院して以降、数回草刈りに出向いただけだった山荘に、約4か月ぶりに、妻を伴って雪かきに出向いた。今季は例年ほど降雪が長く降り続いたことは少ないと思っていたが、この時期には、例年通り約1.5mほどの積雪で囲まれていた。この場所は家屋前は旧県道で、1車線分は除雪されているし、道路端は流雪溝と太田川があり、人手や体力さえあれば雪かきは比較的容易だが、高齢者にとっては難儀なことだ。数年前までは隣家脇なども雪かきできたものだが、今は、中古の除雪機も動かず、人力では何ともしがたい。妻は、南国出身だが、暑さ寒さに強く、小身ながら体力、忍耐力があるのか、黙々と雪をのけていく。私が10分ごとに休みをとっているのに、1時間ほど続けているのには頭が下がる。結局、3時間あまりで、家の出入り口と駐車スペースだけ除雪できた。3月には、週ごとに通うつもりだが、軒からの雨漏りが広がらないうちに補修すること、周辺の雑木の伐採、畑の準備など、運動のためにもやるべきことに取り組みたいと思っている。

 

 以前ヤフオクで廉価で手に入れたオープンテープデッキを取り出し、修理できるか、廃棄するかを判断するために分解することにした。40歳前の人には、カセットテープレコーダーは知っていても、その前のオープンリールのものは知らないらしい。(次男の嫁が言っていた)まず、製造が1972年前後のテクニクス(現パナソニック)RS-724U(当時の価格は\54,500)で4トラック2チャンネル/2スピードというもの。電源は入ったので、動くかと思いきや手でまわしても回らない。まず中の状態を見るために、前後のネジ類を外し、ついでにほこりや汚れを落とし、駆動箇所を拭いたり磨いたりして清掃終了。ベルトは劣化で緩んでいたので、工業用のバンコードで寸法に合わせて自作して取り換え、最後に注油して試運転。スピードは正確かどうかは測定器がないため、耳で推定、電子基板のパーツも目立った異常は見られない。(とはいっても、専門ではないので、劣化して交換できるパーツは、ごくわずか)しばらく動かしてみて、様子をみることにしよう。今年、2台めのレストア(修理・調整)は壊さなくてよかった。このころのものは、基盤も電子部品も微小ではなく、集積回路も少ないので、故障個所を見つけたり、交換するのはそれほど難しくないが、集中力や視力の衰えはいかんともしがたい。こんなことで寿命を使ってしまうのは、もったいないとも思えるが・・・。


 

 

 

 

 

 冬場に入って足腰が硬く、ほとんど動く気がしなくなった。暇をもてあそんでいるわけでもないが、気力が停滞したまま時を過ごすのみだ。これでは残りの寿命がもったいないと思うので、3月には何か目的をもって継続してやることを実行してみたい。最近、尊敬していた有名人が続けてお亡くなりになった。昨年12月には、高校の5年先輩にあたる新井満さんが75歳で亡くなった。「千の風になって」のCDブック詩集は、国語の教材として使わせていただいたし、何度か講演やコンサートにも、あのぼそぼそとした口調で、ゆったりと話したりしていたのを思い出す。コロナが収束したらまたお目にかかりたいと思っていたのに・・・。年が明けた1月には、母校の名を全国に広めた貢献者でもある水島新司さんが82歳で亡くなってしまった。母校がまだ、グランドがない時期に、サッカーや野球部が全国大会に出場し、その名を知らしめたのは、僕が卒業した後だったが

、その後教え子らが、訪ねてきた時には、古町のドカベンの銅像を案内したことも多かった。母校へのプライドのようなものが備わった契機にもなったのは、感謝にたえない。お二人の作品は、ほとんど倉庫代わりにしている遊楽山荘に移したが、探してみたらごく一部が自宅に残されていた。

 

 コロナが収束するかに見えていたが、また新たな変異株が広まる気配になってきた。秋以降なぜか法事が重なり、先週には長女の嫁ぎ先に不幸が起きた。結局、年末年始に子や孫が一斉に集まることは今年も取りやめた。それぞれの家族が、都合の良い日時に少しでも顔を見せてくれれば良いと思っている。それで我が夫婦は、年末年始には、特に何も準備もせずに年を越すことにしたが、家にこもるのもつまらないので、久しぶりに、映画鑑賞のハシゴをすることにした。ちょうど近くにある市民映画館「シネ・ウインド」(全64席)で、約3週間に渡り、沖縄ドキュメンタリー映画特集として「生きろ島田叡(あきら)-戦中最後の沖縄県知事」「オキナワサントスー沖縄とブラジルの間に埋もれていた移民史の暗部/もう一つの「戦争」と「戦後」を生きた人々の物語」「サンマデモクラシー・・・沖縄史に埋もれた伝説のサンマ裁判、統治者アメリカを相手に民主主義とは何かを問いかけた」「夜明け前のうたー消された沖縄の障害者」の4本が連日上映されることを知って、二人で足を運んでいる。いずれもテーマが重い作品なので、ちょっと躊躇した感慨を覚えたが、実体はやはり生の証言に優るものはないと思う。ところで、「生きろ島田叡」の佐古忠彦監督(元TBS)が初日に訪れ、製作過程などの話を聞いたが、最後に、つい私も「沖縄」をテーマにした次の映画製作の予定などがあるのかどうかを質問してしまった。監督は、できれば作りたいと答え、生の証言を聞くことが困難となっている現状、埋もれた物語を発掘する契機が乏しくなっていることも述べてくれたが、まだまだ歴史を検証する意義は多く残っているように思えた。

 なお、「シネ・ウインド」は、1985年3月、当時の繁華街?古町の小路にあった名画座「ライフ」が閉館することになり、その資材を受け継ぎ、寄付金、会員、ボランティアなどを募り、現在地に同年12月に市民が運営する映画館として開館したもので、37年目に入る。大手の映画館では見れない作品が多く、また、地域の文化的発信拠点として貴重な施設であると思っている。