
わたしは、死んだ。
名前は……ニーナ、だったと思う。
仁奈? だったかしら……。
そんなふうに呼ばれていたような気がするのだけど。
いつ死んだのか、なぜ死んだのか。
よくわからない。
瞬間瞬間の間に少しずつ記憶が薄れていく。
なぜ死んだのか。
持病の不整脈からか心臓発作か、そんなところだろう。
最後の肉体の記憶は五体健全だったから、事故とかではなかったはず。
わたしの記憶。
あるとき突然、あっというまもなく自分のハコ
──欲望や苦悩、快楽と痛苦のいれものであった──が、
肉体が消滅した。
そうじゃないかもしれない。
消滅したのではなくリセットされた、
原点に、カオスのゼロにね。
わたしは、もう存在しないけれど、
まだわたしは、ここにこうしている。
色もなく形もなく、透明でやわらかな心地いい、
意識だけとなって浮遊している。
どこにでも飛んでいける、風よりも自由に。
なにもかも透き通り抜けできて、瞬時に移動できる。
こうした状態でいられるのも長くはない。
地球の時間で数日、いや数時間もないのかもしれない。
教わったわけでもないのに、それがわかる。
五官はとうにないのに、まだ見える、聞こえる、香りもする。
わたしは愛する人へ飛んでいった。
黒いネクタイを緩め、シャツのボタンを外し、
椅子に浅くかけ、右手にワイングラスをもって、
頭をたれて微動だにしない。
彼の意識の表も裏も、
60兆の細胞のひとつひとつの動きがただちにわかる。
ことばではなく、染み入るようにわかる。
—— 突然逝ってしまうなんてずるい、オレをおいて。
彼は悲しんでいる。
深く、さらに深く。
悲しむ必要なんてぜんぜんないのよ、あなた。
わたしは肉体のくびきから解き放たれて、
悩みも苦しみもなく、かろやかに舞っているの。
それをどうやって伝えればいいのかしら。
彼の首のまわりにまとわりついて耳に息を吹きかけた。
—— ニーナの匂いだ?
わたしに気がついたみたいだわ。
ほんとうに愛おしい。
意識があたたかくなった。
よかった。
わたしはあなたを通り抜けないで感じることができる。
ごめんなさい、あなた。
わたしはいい女ではなかったわ。
素直じゃなかった。
好きなのに、そうじゃないふりをしたり。
そうじゃないのに、もてたふりしたり。
あなたの思っていることの反対を言ったりしたわ。
わざとね。
いやな女。
ね、覚えてる?
夏の海岸でみた花火。
「ドンと咲いてパッと散る、人生も花火みたいにできたらいいね」と言ったら、
「なにを言うんだ」とあなた怒ったわ。
「ダメだよ。これからぼくたちはたくさん一緒にすごすんだよ。
たくさん笑って、たくさん犬もくわない喧嘩して、うじうじ悩んでお互いにたくさん執着して、
たくさん一緒に生きていくんだから」って。
あっ、涙。
泣いているの、ありがとう。
あなたのおかげよ、
こんな豊かな気持ちで逝けるのも。
約束は守れなかったけれど、
これからはもっと近くにいるわ。
あなたのこころのなかに、
覚えていてくれる間は。
あなたはおじぃちゃんまで生きるのよ。
愛する人を見つけて、暖かい家庭を築いて、
たくさんの孫にかこまれてね。
あなたに伝えたいことがある。
「死ぬことはなにも恐くないのよ」と。
死は、仄暗い未知の世界へ連れて行かれるのじゃないの。
自ら所有していたものすべてを自然に帰して、
生まれる前のふるさとに戻って行くだけのこと。
—— 身体は借り物であり、物質の所有は目の錯覚なのよ。
わかってくれた?
死ねばわかるわ、人はだれでも死ぬんですもの。
どんどん記憶も意識も薄れていく。
加速度的に亡失していっている。
もうすぐだ、
わたしは同化する、
大いなるものに。
経験したことのないオルガスムスが押し寄せてきた。
意識が透明にいよいよ遠くなっていく。
すべてが宇宙の空間へ無限大に広がっていく。
わたしは──永遠を知る。