寝ても醒めても ~ Nuit et Jour ~-hisomi4.jpg



















「五月を待って咲く橘の花の香をかげば、去年の夏の曙のまどろみにくるまったあの人の袖とまさぐった胸からたちのぼった匂いを思い出してしまう。今はどうされていらっしゃるのだろうか、と」

一首の解釈をそう述べて着席すると、先生は「ずいぶん突っこみましたね。そのまさぐった胸はどこにあるんですか、石川さん……?」と厳しい顔で言った。
「ここは安っぽい恋物語を下書きする、シナリオ作家のたむろする楽屋じゃありません。書かれてあること、調べたことの結果のみが表現を許されるのであって、妄想を口にする場ではないでしょう」

「いいえ」、私は敢然と言った。「妄想ではありません。その時代、十二単衣は布団でもあったといわれています。そうした女性は自分の十二単衣の中で、くるりと包まって寝ていたそうです。この歌、読み人知らずですが、作者が誰であれ──男であれ女であれ歌の主体の性別はどちらでもいい──それだけ洗練された歌だということができます。私は女ですから女性が詠んだように解釈したのですが、私の解釈であっても男性が詠んだといって不思議ではないと感じます。夏の初めのころの夜、恋人どうしがくるまって寝る。愛をまさぐるためのかけられた単衣の一番下は、裸のふれあいに違いないのです。また、袖の香は焚きしめられたものだとすると、橘の花ではなく果実の柑橘臭ということになります。花の香をかいだだけの関係ではない、すでに実をもいだ関係の愛人であることを強調するのが香の重ね使用と思います。どちらが強いということもない対等の性の透き通った愛の強さ、それを表現するのに“胸まさぐる”がいけないのなら、替わるべき表現はどうしたらいいのか教えてください」

 先生は苦笑いして、「あなたの思い入れが間違いとまでは言いませんが、それは主観にとどまりますよ。一次解釈は客観性を重視してほしいものです。もし、高校の国語の授業でそんな解釈をされたら、生徒はどうなんでしょうね」と皮肉っぽく言った。

「きっと大喜びしますわ」と私は言った。教室中が「わっ!」と沸いた。「じゃ、古今はこれでいいですね、石川さん」と先生は次に行こうとする。
「先生の解釈をお聞きしていません、教えていただくお約束です」と私は言う。

「和泉式部日記は、式部が亡き恋人の弾正宮為尊親王(だんじょうのみや・ためたかしんのう)を思いつつ、五月の庭を眺めながら体を熱くしているところから始まります。するとそこへ、弾正宮の弟である帥宮敦道親王(そちのみや・あつみちしんのう)の使いの小者がやってきて、花橘の枝を捧げるのです。敦道親王は、新しい恋を誘ってきたのです。式部は──すでに夫のある身で地方赴任を幸いと為尊親王と道ならぬ恋に耽っていたのですが──このときも躊躇せず、すぐに、
かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたる
と返します。あなたは恋しかった人の弟君、きっとお声もあの方に似ていらっしゃるのでしょうね。衣擦れの音とともに囁かれたあの情熱的なお声を、また聞いてみたいものです……ということでしょうか。差し出されてきた手を握り返したのです。そしてふたりの愛が始まります。
桜色にそめし衣をぬぎかへてやま郭公(ヤマホトトギス)けふよりぞ待つ
の歌は、その心境を歌ったものともいわれています。このシーンを思い浮かべてください。兄君が私を染めた色は桜色、いま、花が散って春は去り、初夏がやってきました。私は古い衣を脱いであなたへと衣を更えます。やまほととぎすが鳴けばあなたがいらっしゃる。今日から私はあなただけを待つ身となりました……。風景は新緑の庭、白い橘の花。バックを繰り返し流れる歌は、例の“さつき待つ”です。この BGMを、みなさんはどういうふうに受けとめますか?」と先生は問いかけた。
 
「石川さんはどうでしょう?」
私は黙って頭を下げた。

この日の講義のあと、研究室に顔を出して先生にお茶を入れた。先生はおいしそうに茶を喫して、「あなたの袖の香がしますね」とつぶやいた。横に立っていた私は、「それはどういう意味でしょうか?」と首をかしげた。先生は「あなたの思っているとおりですよ」と答えた。

私はしっとり濡れている手を差し伸べ、彼はその手をぎゅっと握り返した。

心臓がコトンと反応し、背中から体が浮かび上がる想いがした。