私は世界を鮮やかに実感することができなくなっていた。世界はときに、透明なビニール膜に透き間なく覆われているよう思われた。またときに、私自身が全身をサランラップかなにかにすっぽりと包まれ、世界から遮断されているようにも感じられた。そこにあると目には見えても触感がないのである。つまりは、他者の歓びも苦しみも怒りも呻き声も、私には届かない、音抜き、匂い抜き、手触りなしの資料写真のようになってしまったのだった。生きていてそれほど悲しいことはない。外部世界との有機的関係を避け、資本や国家外交を通じどことなく無機的につき合うこと、ありていにいえば他者の累を徹して回避すること、そのような状態をこの国では安心といい、平穏といい、安泰と呼ぶことを知らなかったわけではない。国全体がいわば離人症候群に罹っており、透明な抗菌隔壁越しでなければ周辺世界ととてもやっていけない病理にはまっているのである。
ある日、私はこの隔壁やビニール膜をばりばりと突き破りたくなった。
ビニールハウスふうの無菌、無風空間から世界を眺めているのがついに嫌になったのである。
よしや腥いのであれ、埃臭いのであれ、饐えているのであれ、死臭を含むのであれ、私は人の世界の風らしい風に、空調の風ではない、まっとうな風に当たりたくなった。
- もの食う人びと (角川文庫)/辺見 庸
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櫻井翔さんがおススメしている本ということで購入して読んでみた。
本の内容は、割愛するとして。
この最後の文庫版のあとがきに感銘を受けた。
まさに私の心を代弁しているかのようだったから。
実際私は学生で、筆者の辺見庸さんのように情報をさばくというような状況にはまだいない。
でも今、将来を真剣に再考しなければならない身の上で、私の一番の悩みの根幹にあるものがそれだったから。
世界に、日本に、そして私が住むこの街に何十年、何百年も前からはびこる得体の知れない問。
見て見ぬふりをして生きていくこともできる。
そしてそう生きていくことはどれだけ楽だろう。
見て見ぬふりをして生きていくと決めたとして、その社会は将来生を受けるであろう私の子供にどうしても生きていって欲しい社会なのか。
もしわたしの子供がその得体の知れない問に自ら飛び込んでいきたいと言ったら?
その時に私は世界の道理とされている互いに幸福になるスタートを知らせるようなあの言葉を、子供に一瞬の躊躇もなく贈ることができるのか。
答えは否。
じゃあどうしたらいいの。
私はどうしたらいいの。
無理をしてでも、見て見ぬふりをして生きていく?周りの上手な大人たちのように?
どうしたらいい?この世界私の力で変えられる?
