Shunsukeのブログ

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私という人はどういう人間か、このブログの意味について書いていこうと思う。






小学生の時にハワイで観た景色。白い砂浜に、エメラルドブルーの海と、そして空。それをインスタントカメラで映した写真がずっと頭の中にある。




空は、それまでに体験したことのない色をしていた。白く大きな雲、陽を浴びて影をつくり、光の線が見える。


沈みかけの半分の太陽が赤く燃えていた。見える景色が、その一瞬が、疑えないほど、太陽に愛されていた。空に愛され、風に愛され、土に愛されていた。






高校のとき、進路とその他の事に躓いた私は、バイトをし、一眼レフカメラNikonFM3Aを買った。


小学生の時に感じたものは感動だった。言葉を知らない私は、ただ、「すごいすごい」と、その意味が知りたかった。その理由が知りたかった。単純に、その感動を切り取って持っておきたかった。




 


 私は高校卒業後浪人し写真にのめりこんだ。街を歩き、スナップ写真を主に、気が付いた物、良いと感じたものを撮っていた。進路について考えて、その場をつくることはできないかと考えた。感動の場。人が良いと感じる場をつくりたいと考えていた。




 ある日、ふと手にした本で、堀部安嗣氏の作品に触れた。そこには場があった。それも「まわり」と溶け込むような場。強く主張せず、静かで、そこに在るべくしてある形。そこに暮らす人々が想像できた。生活が想像できた。その想像した生活は、ひとつひとつが感動の場であった。


 


 彼の様になりたい。それはどんなに幸せだろうか。






 私は、建築家になることを決めた。






 この時、父が糖尿病から来る網膜症に発症していることを告げる。父の42歳の誕生日であった。


父の右目の視力は既に家族の顔を判別できない程に弱っていた。進行は防げても改善することは難しい。父はその状態になるまで仕事をし、家族にも気付かれない様に生活していた事を知った。






 一年浪人の末、大学の建築学科に合格。


 意匠、構造、歴史、環境工学について学びながら4年間を過ごす。後で気づいた事だが、実はその学校は創立当時は写真の専門学校として開校し、私の代には絵画やイラストなどの芸術の分野から、工学分野まで幅を広げ、その中に建築学科も組み込まれていた。




私は入学後すぐに写真部に入部した。建築を学びながら、写真作品の制作からプリントの技術などを展示を通して学んだ。






 2011年大学を卒業。


 就職難もあり、設計事務所の内定が貰えず、父の事もあったので、幅広く職を探していたところ、不動産管理会社の社長から、後々は工事部門を立ち上げ、その管理職に就いてほしいと言われ、2011年4月に就職。




二級建築士の資格取得に励みながら、管理課に就き、不動産管理の仕事を学ぶ。


 仕事は思うようには行かなかった。バリバリのサラリーマンになる事に勢いづいていた私は「負けるか!負けるか!」と歯を食いしばり仕事に明け暮れた。


 仕事をすることで、非がなくとも謝ることを知った。人を不幸にすることを知った。人に喜んでもらう事を知った。言葉じりで騙す事を覚えた。




 


 2011年7月二級建築士学科試験に落ちる。




 仕事を一通りこなせる様になり、仕事量が増える。しかし2012年7月。再び挑んだ二級建築士試験に敗れる。これが切っ掛けになり、建築家になる事が出来ないのだと思うようになった。




 


 夢であった建築家。感動の場をつくりたいと思った私はそこにはいなかった。感動は忘れてしまっていた。汚い仕事を沢山して、人の不幸やそれからくる人の醜い部分を沢山みた。自分の醜い部分も沢山みた。自分を含め誰も信じられなくなっていた。


 どこにいったのか解らなかった、あの愛されていた場。どこにいても、何をしても、全部灰色だった。


 仕事を続けて、5年後、10年後の自分が想像できた。変わっていって、良いものに蓋をして、生きる。




 ただ生きる。






 2012年10月。


 仕事を休み。ふらふらと逃げた。何も考えられず、今すぐに自分を変えたくて、出会いを求めてさまよった。


その日は雨が降っていた。空も、風も、街路樹も、相変わらず灰色。




 気付いたら、私は京都に立っていた。髭も剃らず、風呂にも入らず、自分という人間の何をも果たせず、浮浪者の様に傘を突いて歩いた。歩いた。ただひたすら歩いた。歩きながら考えて考えて。歩いていると、自然と目的地が決まっていた。奈良の吉野まで直線距離100km。3日間寝ずに、食べずに、野宿しながら歩いた。




 そのうち考えることを忘れていた。もちろん何の決断も出来ていなかった。




 足の裏が切られたように痛みを持ち、膝を曲げられなくなった頃。丁度県境の辺りだろうか、陽が山に落ちるのを観た。




 空も、山も、私も、赤く燃えていた。足を止めて、小一時間、何も考えずそこに佇んだ。


 鳥肌が立った。美しかった。ただ美しい。


 この目に焼き付けようと思った。山の影から、一枚一枚の葉まで、私の頭の先から足の先まで、照らされる陽を忘れまいと、感じるすべてを、言葉にせず、もう一生忘れない様に。






 家族の事、自分の事。


 良い事と良くない事。


 未来、過去。




 全部、どうにかなる様な気がした。




 この足があれば、どこにでも行ける。


 この目があれば、なんだって見れる。


 この手があれば、なんでも掴める。




 


 陽が落ち切ると再び歩き始めた。


 明かりが少ない国道を歩き。星がよく見えた。宇宙に浮かんでいる様だった。


 目的地が見えてくると、涙が出てきた。ごめんな、ごめんなと自分に謝った。守ってやれなくてごめん。君を傷つけたことを許してほしいと泣きながら歩いた。






 目的地まで30kmを過ぎてもう歩くのが苦痛になっていた。


 両足の裏は焼けるような痛みに変わり、左足の膝は地面に突くのさえできない程に悪化していた。




 痛い、何やってんだとか笑いながら。畜生!畜生!と声を出して一歩一歩山を歩いた。






 吉野に着いた時はもう夜だった。さあ帰ろうと電車に乗ると、もう力が抜けてしまって、全身が痛みと寒さで震えた。次の日、会社に退職届を提出した。








 退職の引き継ぎの挨拶まわりをした。所謂クレームが多いオーナーで、私が担当を受け持ってから、様々なことを教えてもらっていた人がいた。義理人情に厚く、正しくない事は許さない人だった。自分の物件も自分でメンテナンスをしている職人だった。


 何を言われるのかと気構えして退職の旨を伝えると、






「あぁ、こうなると思ったよ。君は建築の道に進まなきゃいけないんだよ。」


「合っていないと思っていたんだ。」






 それを聞いた上司は怒っていたが、私は泣きそうになるくらい嬉しかった。


職人さんだから、建築の事がわかっている。そういう人たちに囲まれて生きてきた人にそういう風に言われて、自分の決断が肯定されているようで嬉しかった。




 


 2012年11月31日 退職。




 晴れてプータローになった私は、建築関係の職を探し始めた。設備系から構造系、またはその職への繋ぎとなる仕事を探し始めた。それでも、仕事を探すうちに、自分は大変な事をしてしまったのかもしれないと、得意のネガティブ思考に陥りそうになった。


 前職の社長、支店長や父とも、腹を割って話したが、誰からもそう簡単じゃないと、無理だとまで言われた。






 2012年12月6日、電気設備会社の書類選考が通過し、その社長と話す機会があった。


 社長には採用関係なく、人生のアドバイスをしていただいた。


 その会社は設備系ではあるものの、設計の業務もある為、建築家を志し職を求め訪ねてくる人が多く、社長は過去に3人も建築科出身の人間を採用し、ことごとく皆辞めていったとの事。






「馬鹿な奴ほど建築家が諦められない。30過ぎて資格を取った途端辞める人間を沢山見てきた。そういう人間程、建築家の仕事がどういうものかわかっていない。30過ぎて未経験で仕事ができるような職ではない。


それを何度言っても解らないんだ。」






「君も建築家になりたいんだ。前職の職を失敗したのに、何故また遠回りしようとする。君は年齢も考えて、今しかできない。諦められるまでやってみなさい。死に物狂いで100件でも事務所の扉叩いて、思う存分やってみる。それで諦める事ができるようになったらまた来なさい。」






 社長の話を聞いた途端、やるべきことが見つかった。やってみよう。もう脇目を振らず、自分の成りたい自分になろう。


 出会えてよかったと思う。一生忘れない。今の自分の原動力になっている。




 今は、バイトしながら、ひたすらポートフォリオを作っています。


 建築をつくるのが楽しくてしょうがなく感じています。






 弱く貧弱で、馬鹿な典型的ゆとり世代ですが、馬鹿は馬鹿なりに、生き方を探しています。






 このブログは、そんな馬鹿が、少しづつ気付いた事を記していく、ひとつの場にしようと考えています。