私の父は、2年前に交通事故に遭いました。


10月25日。

その日はちょうど県外に嫁に出た姉の誕生日でした。


私は実家を離れ一人暮らしをしているのですが、昼過ぎ頃友人と出掛けている最中に母から電話がきて、「父が事故にあって病院に運ばれた。」とだけ言われ、友人と別れ病院に向かうと、顔面蒼白の母がそこに居ました。

父は休日出勤で、職場に仕事で使う道具を取りに車で土手を走っている最中に、反対車線から車が飛び出してきて正面衝突したらしいです。

出血が酷く、今すぐ手術をしないと助からないと言われ、同意書に震える手でサインをしていた母の姿を今でも良く覚えています。

事故に遭ったのが、11時50分頃で、土曜だった為に中々医師や麻酔技師が集まらず、しばらくは止血しながら輸血で対応し、手術が始まったのが午後4時過ぎでした。

大変な手術になるし、これで最後かもしれないので呼べる身内は全て呼んで下さいと医師に言われ、富山にいた姉に急いで連絡を取り、来てもらう事になりました。

祈るような時間を過ごし、手術が終わったのが深夜3時近くでした。

大腿骨頸部骨折に始まり、診断書には13個程項目が書いてありました。

医師からは、やれる事は全てやりましたと告げられ、父はICUに運ばれて行きました。

毎日見舞いに行きました。

父の意識は依然戻らないまま。

沢山の点滴や管に繋がれていました。

私はその時ちょうどヘルニアで仕事を退職したばかりだったので、いったん実家に戻ることに。

事故のショックで、母が半年程運転出来なくなったので、その間は私がひたすらに運転して見舞いに行きました。

有る日、最初の決断が訪れました。

自発呼吸が出来ないので、喉に管が入って居たのですが、そこから炎症を起こしたので、管を外して自発呼吸に賭けるか、喉を切開してそこから管を入れるか。

母と父の兄弟と相談し、これ以上傷を付けるのは可哀想だという決断に至り、自発呼吸に賭けました。

その日はあまり眠れなかったのを覚えています。

翌日病院から電話がきて、自発呼吸していますと報告をいただいた際は本当に嬉しかったです。

それから一般病棟を転々とし、毎日見舞いに行く日々は続きました。

意識が少し戻って来たのか、笑い話をすると父も笑うようになりました。

入院から3ヶ月が経ち、ほんの少し喋れるようになった頃に転院する事になりました。
体は相変わらず拘縮したままです。

勧められたのが鹿教湯病院。

リハビリテーションで有名な病院です。

自宅からはカナリ遠くなりますが、父の為にはそこが一番良いと思います、とSWに説得され、民間の救急タクシーも手配していただき、いよいよ明日は転院、という時に、39℃近くの高熱を出し、翌日も熱があまり下がりませんでしたが何とか受け入れ先の了承をいただき、長野市の病院から上田市の外れにある鹿教湯病院への転院の為、私と母は民間の救急タクシーに乗って、父の兄弟には先に違う車で鹿教湯病院に向かって貰いました。

鹿教湯病院も遠いので、決断する迄悩みました。

そこで毎日リハビリをしていただき、だいぶ意識もハッキリしてきました。

続く