第二回楽曲観察

「東京事変 - 閃光少女」

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今日現在が確かなら
万事快調よ明日には
全く憶えて居なくたっていいの
(現在=いま)

12/25にMステスーパーライブで行われたテレビ出演のテロップにて、この歌が「メッセージソング」と表されていた。非常に的確な表現、というか、ちょうどいい表現である。椎名の書く「メッセージソング」の多くは前回の「贅沢は味方」同様、曲の冒頭に簡潔な主張が記されていることが多い。このパートはそれに当たるだろう。よく耳にするフレーズに置き換えれば「今を生きる」といったところだろうか。今日、明日という表現は今、未来のことと言える。「万事快調」と言う言い回しも椎名らしい。



昨日の予想が感度を奪うわ
先回りしないで

ここでいう「感度」という言葉が、一体何に対する感度なのか。この点は文章後半で迫っていきたい。感度という言葉自体は、椎名が「なにかを感じ取る眼」「感性」というニュアンスでよく使うように感じる。広義的には「センス」といった語も同じように使えるかもしれない。先回りするなというのも冒頭の主張と同じことである。椎名のメッセージソングは同じことの言い換えが多い。しかし、非常に伝わりやすい。やはりキラーチューンとよく似た構成である。



今日現在を最高値で通過して行こうよ
明日まで電池を残す考えなんてないの

このパートも主張は同じである。今日、明日、昨日を出した文章をついにして並べている。表現を変えて同じ主張について歌う。やはり伝わりやすいのだ。この伝わる表現。メッセージソングという位置付けが的確な所以である。電池を残すというのも秀悦な例えである。曲の質感にも合う。



昨日の誤解で歪んだ焦点は
新しく合わせて
(焦点=ピント)

先程奪われた感度。その予想が誤解であったと示され、「新しく合わせて」という新提案(?)と共に楽曲もサビへと展開していく。またピントという単語は、後の「写真機」の表現に繋がっていると言える。新しく合わせること。いつも変わっていくこと。正しく椎名の教えのど真ん中である。



切り取ってよ、一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
私は今しか知らない
貴方の今に閃きたい

椎名のソロ曲に「ギブス」という大変有名な楽曲がある。このパートでは「写真になれば私が古くなる」という、ギブスの表現が思い起こされる。これまたキラーチューン同様なのだが、サビに来てやはり唐突に「貴方」が現れるのである。この構成自体が椎名のメッセージソングの魅力である。サビ前までは自分自身の生き方に向き合い、サビではその自分で二人称に向き合う。大袈裟にいえば、このような人との向き合い方自体が、東京事変以降の椎名の歌の大きな特徴、強み、味であると思う。これは先程例に挙げた「ギブス」の時には見られなかった特徴である。
では、観察に戻ってゆく。何故、写真機はいらなくて、五感が必要なのか。答えは「一瞬の光」である。致し方ないので、何処かでお見受けした表現を拝借すると「写真、映像が普及し、体験を何度でも再現、複製が可能になることで、本来その体験が持っていた貴重な『輝き』が薄れてしまう」からである。切り取って、という表現を用いたのはあえてカメラを連想させる語を使うことで、その対比をみせたのだろう。勿論語の質感も関係している。
もう一つ考えなくてはならない。「閃く」の扱いである。ここは「瞬間的に光り輝くこと」としておさえるのがよいだろう。「瞬間的に思い浮かぶ」ことを解釈に入れることもできなくもないが、それは日本語がもつ含みの部分である。観察においては一旦無視させてほしい。では貴方の今に光り輝くとはどういうことなのか。「貴重な体験が持つ輝き」に答えを見出したい。つまり、一人称が放っている輝きとはまさしく、その瞬間の貴重な輝き(あえて言葉を借りるならアウラ)のことなのだと思う。この解釈は、二番のサビに役立つ。



今日現在がどんな昨日よりも好調よ
明日からはそうは思えなくなったっていいの

再び今日、明日、昨日の文章である。同じ主張を繰り返す表現でもありながら、「今だけをみて生きるなんて危険すぎる」といった考えへの反論にも聞こえる。「今が最高潮だなんていって、明日もそうとは限らないじゃない」という反論に「それでもいいのよ」という反論返しをしているようにも感じられる。



呼吸が鼓動が大きく聴こえる
生きている内に

一行目は二つの捉え方ができる。単に、「息と鼓動が大きく聞こえる。」という文章説と、「生きている内」の修飾説である。残念ながらここはどっちでもいい。
また、生きている内にという表現には脱帽である。是非音源で聴いていただきたいのだが、このラスサビ前での「生きている内に」の切なさ、儚さ、切実さといったらもうそれはそれは。ずっと、今しかしらない、今を生きるという前向きさを描いてきたこの歌に、命に終わりがあるという、生命体にとっての圧倒的な現実を、切なく打ちつけてきているように感じる。しかし死んでしまう前に。ではないのだ。生きている内に。だって私たちは生きているのだから。たった七文字で締め付けられる想いになる。これがラスサビ「またとないいのちを使い切る」に繋がっているわけだが、あまりにも儚い。過去に囚われている場合でも、未来を憂いている場合でもないのだ。強く心に刻んでいたい。
このパートでは椎名のボーカリストとしての才能も感じることができる。閃光少女はライブの定番曲だが、どんなライブでも驚くほどこのパートの音の切りが切ない。一瞬声が裏返る。この生きている生々しさを体現するかのような歌。唄。



焼き付いてよ、一瞬の光で
またとないいのちを
使い切っていくから
私は今しか知らない
貴方の今を閃きたい

一行目について。一サビでは「切り取って」であるから光っているのは私である。一方こちらは貴方の光を私に焼き付けたいという文章である。なんてずるい表現。惚れてまう。そして、「またとないいのちを使い切る」である。使い切る。電池の伏線回収完了。いのちはまたのないのだから、毎時毎時使い切っていかなければならない。
ここで、前半でのこした「感度」の問題を拾っておく。もうお察しだと思うが、この感度とは、貴重な一瞬の輝き(アウラ)を感じ取る(焼き付ける)感性である。束の間の輝き、という表現も良いかもしれない。

では、大問題に取り掛かる。
《貴方の今【にorを】閃きたい》

大変悩んだ解釈であるが、貴方の今に閃きたいの方は先程記したそのままの意味で受け取っていいと思う。貴方の今を閃きたいについては語弊餠を招きたくないのであくまで一説として捉えて欲しい。
「〜に閃きたい」は、「〜に(向かって)閃きたい」というニュアンスが強いのに対し、
「〜を閃きたい」は、「〜(の中(内側))を閃きたい」というニュアンスではないかと。
全てニュアンスの話になってしまうためあくまで皆さんの感性を大切にしていただきたいが、この後の表現が「光りたい」ではなく「光っていたい」であることからしても、二番の方が「閃いていたい」という感じを受ける。

やはり、書かなくてはいけないと思って書いたが、ここの解釈はそれぞれが受ける質感のほうが大事かもしれない。少なくとも日本語が母国語の皆さんは文法的にとか、意味的にとかを考えるより、感じたことが全てな気がする。曲を通して聴くと「今に」と「今を」では若干受ける印象が違っていると思う。




これが最期だって光って居たい

これも解釈が複数あるようだ。「これが最期だ(とした)って光って居たい」「これが最期だ(とおも)って光って居たい」の二択である。これも日本語は含みが楽しい(とくに短い文学は)なので正直どちらでもないのかもしれない。



【タイトル】閃光少女

まさしく閃き光る少女の歌であった。過不足なさすぎるタイトルである。




構成

この歌、たった3分である。しかも歌のあるパートは2分のみ。この疾走感、寂寥感こそが閃光少女を閃光少女たらしめる所以だろう。なぜなら貴重な瞬間は一瞬なのだから。とにかく過不足がない。むしろ少し不足しているような構成。一瞬の光で焼き付く楽曲だ。






まとめ
疲れた。