The Golden Days

The Golden Days

美しい世界を見つける旅人のブログ。

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ここのところ、とても深く、いろいろな経験をしていました。


言葉にならず 今も言葉にならないかも知れないと感じます。



数週間前、 
(記憶が定かでは無いのではっきりといつだったかわからないのだけれど)

ふと 世界に対する執着心がぽこんと無くなってしまいました。


ああ 本当に全部置いていける(行ける・逝ける)と感じました。

地上へのアンカーが完全に無い状態になりました。


この世界を もう味わいつくした気持ちでした。

そしてこれまでアンカーにしていたものは全て幻想であり 実際はアンカーとしての機能が無かったこと、アンカーを作るべき という義務感が生み出した幻だったということを悟りました。


何だ 最初から全部とさよならが言えたのだ。

そして そのことは逆に全部が自分の内側であったことの証であるのかも知れない。



そう思うと 嬉しさも悲しさも湧かなかった。


友人にメールをしたら 私が精神不安なのかと あわてて電話をくれた。

話をしているうちに 彼女に私の感覚が伝わったようだった。


「その感覚は良いものだ」








全部が要らなくなったとしても、


それでもちゃんとやることがあり、「次の日」がやってくる日々です。





観念や記憶の会話などが 今でも時々脳内を蠢くことはあるのだけれど、

そのこと自体、確実に過ぎ去るのを知っている。 



とてもさわやかな気分である。






我々の世界のことを書こう、


人間は本当の対話をしていなくて 私は時々ひとびとの対話にとてもがっかり残念で

興味がなく 悲しい。


劣等感やトラウマが生み出した不安や痛みに鞭打たれて 自分が行きたくもない方向へ走る馬の様だ。
行きたいのか 行きたくないのかすら そのドラマチックな動きの中では考え直す時間が無い。

考える間もなく 人は自分に鞭を打っているのだ。




何を言っているのか この人たちは。


殆ど雑音である。




けれど その世界も 私はよく知っているものだ。




もういい 馬鹿なおせっかいをプレゼントされて とてもこんがらがって

相手を一生懸命ヴェールにくるんで一生懸命理解する必要性が 全く無い。

面倒くさい社交辞令や 回りくどい批判など 私は要らない。



愚かな頭を突き合わせて幻想を広げ 幻想から逃れようとすることすらできない人たち。

どんどん気力や賢さが奪われるこの社会構造、もういい。

自分の痛みしか感じずに 相手の本当の気持ちを無視している人々、

相手の中に英知が全く存在しないかのように 本当に馬鹿にしながら世界を見渡す人人、




それは私だ。私自身の内的感覚世界が 外側に漏れ出しているだけなのだ。


そのことはもう、

赦している。



私はわたしが悲しいほど愚かなのを知っている。



大丈夫、 愛しているよ。









私は どこへ行くのか という質問に 

今答えるとしたら なんといえばいい


何も計画がないのだ。




どこへ行こうか。











弓道のクラスメイトに借りた本を読み終えたので
皆様にもご紹介いたします。

オイゲン・ヘリゲル 「日本の弓術」岩波文庫

 ☆☆☆★★ 星二つ。


せっかくなので気に入った個所を書き出してみるね、これはドイツ人のヘリゲルが
日本の弓道家・阿波先生に弓を習った時のエピソードがいろいろと書かれている本なんだ。

阿波先生が 弓を自分の力で離すな と云うけれど 外人ヘリゲルには何の事だかわからない。自分が離さなくて誰が離すというのだろう?!理解に苦しむ。

そんなとき、阿波先生が言った言葉 (以下本より↓↓↓)


『あなたの代わりに だれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい。』






このことを理解している人が ちゃんといたのがうれしかった。










英知とは 真理とはなんでしょう。


私はこのことをどこかへ探しに行ったりしない。


私はこのことを 私の中に見つける。







あなた方が言っていることは 私には殆ど狂気の世界、

それでも私はその狂気を知っている。


この狂気を 私はしっかりと 何も判断せず 常に、目の前に見ることだ。


観ることは とても大事。



そして 私は あなた方のもたらす 執着や偽物の愛については 反応しない。


それは愛ではない、真理でもない。


そのことを悲しむこともない。


私が責任を持つのだ、あなた方は 私だ。





一生懸命 人が歩いています。

とてもとても 重い荷物を背負って。


私はその人たちを 馬鹿とは思わない。


私は痛んだその足を知っている。私は痛んだその心を知っている。



私に批判を向ける その目を知っている。

痛みすぎているのだ。





私は 私という幻想の殻の中に閉じ込められた何かなのだ。




いつの日か観ていた 不思議な感覚を 時空を超えて また理解する。



「私」という枠組みを決めたのは いつだっただろう。

「知らないこと」や「わからないこと」を 
しらない・わからないと言ってはいけないと、いつ 教えられたのだろう。



欲しいものがなくて 何も要らない と言うと 誰かが残念な顔をした。


無欲であることが 悪いと思ったのはいつだったろう。



身に着けたすべてを脱いでいけばいい。


誰もが皆 本当の英知そのものなのだ。これは言葉ではない、


身に着けたものを 脱いだ後 あなたは何になるのだろう。




私は 誰なのか、





私を生きるのは誰か


それを 答えられるのだとしたら 私は私の中に なにを見出す?









これは 私からのプレゼントである。

((私とあなたという私への))  


12月27日の朝。

おヘソの辺りのチャクラについて 誰かとても賢い存在に夢の中で解説してもらっていた。

おヘソの少し上だったか それとも少し下だったか きちんと覚えていないのだけれど
その辺りに「天道」がありすぐ下に「斜陽」、その下に「機会」があるそうだ。
(「機会」は丹田よりも少し下で、ベースチャクラよりも少し上。)

「天道」「斜陽」「機会」、、
この三つの単語が表す深い意味をすぐに理解し 何というぴったりの呼び名だろう、素晴らしい!と感じた。

(「機会」は、開くと動きが生まれるイメージで
「天道」は天の気を受けるイメージ、「斜陽」は斜め上から天の光が差しているイメージ。)

起きてみると詳しい意味が殆ど分からなくなっていたけれど 面白い感覚と何か重要なものを理解した感じが残っていた。