「ああそうだわたしばいただった」、と女は思い出した。

3ヶ月ぐらい前のことだろうか。長年惚れこんだ男に酔った勢いで電話して「これ以上付き合えない」とあっさり捨てられ、終電も逃して雨の中で大泣きしていたところをタクシーの運転手に拾われてラブホテルに連れ込まれたのだった。

ねっとりした汚い舌、色気もへったくれもない性交渉、不勃起の粗末な男性器を思い出して売女は眉間にしわを寄せた。グロテスクな朝方を忘れようとニコチンを肺いっぱいに吸い込んで、遠くに向かって噴き出す。

「しょーもな」

吐き捨てて煙草の火を消した。



女が売女になった朝、運転手は送迎の予約があったらしく、ことのあとに一度ホテルを出ていった。「9時に戻るからね、それまで寝とき。帰ってきたらもう一回しようか。今度はバックからしていいか?あと尺八もしてくれんかな」と下劣極まりない糞台詞を投げて出ていった。

今までの人生の4分の1ぐらいを懸けて惚れていた男がもう一生自分のほうを見ないと知った売女には、ほんとうに全部がどうでもよかった。運転手を待っても別にいい気がした。このまま死ねたらどれだけ楽かも考えた。倫理的に考えてここにいるのがよくないこだともわかっていた。しかし何より雨にぬれたせいでべしゃべしゃの服を着るのが嫌だった。

無気力ながら、SOSのメールを男に送った。返事は帰ってこなかった。
気が狂ったのか、友達に電話を掛けた。売女宣言をしただけで何の得にもならなかった。

売女はなにがなんだか余計わからなくなってホテルから逃げた。国道を通り過ぎていくたくさんのタクシーにびくびくしながら最寄り駅まで歩いて帰った。



女はその日から売女になった。消えない恥ができた。後ろめたい思い出。人生の汚点。

「もうなーんもいらへんよ」

売女は灰皿にコーヒーを流し込んでぐちゃぐちゃに混ぜて、ちょっとだけ泣いた。


何年も前に付き合っていた男に、最近、遭遇した。

声をかけてきたのはあっちだった。私が古本屋からの帰り道、ヒールの靴で歩くのに疲れて適当なバス停で座っていたら「あ、やっぱりや。」と言われた。

最初私は誰かわからなかった。また変な人に話しかけられてしまった、という気持ち悪さと恐怖感を何となく感じる。

「俺やって、かずや。久しぶりやなあ。」

「あー・・・。よう覚えとんなあ」

正直めちゃくちゃ嫌だった。昔からいろんな職を転々としてる変な奴で、話もキスもセックスも面白くない。なーにひとつ、ユーモアもへったくれもないエゴの押し売り。私よりも身長が低いし、顔も全く好みじゃない。なにより彼との出会いがナンパだったことも再会して嫌な気持ちになった原因の一つだ。本当になんで付き合ってたのかわからない。

これらの考えが一瞬で頭を駆け抜けると更に気持ち悪くなり、さっさとドロンしたくなってきた。

しかしかずや(仮名)は話したそうにこっちを見ている。軽く歯を食いしばって気持ちをこらえながら、無難な質問をする。

「最近何しよん」

もちろん普通の返事がくる。面白くない、質問したものの全く興味ない、早く帰りたい、怖い。ていうか誰やねん、今更なんやねん。わしうつむいてケータイいじっとったのになんでわしやてわかってんおかしいやろ、とか色々なことが浮かんできて余計に恐怖感をあおる。限界だった。

「ほな、か、帰るわ」

私は歩き出した。二人でいる空気にも耐えられなかった。

数歩進んだところで声が掛かった。

「メアドとか、聞かん方が・・・ええかな」

当り前である。こっちはさっさと帰りたくて必死なのだ。未練も興味もない相手に好かれるのは失礼だが迷惑でしかないし、友達程度にでも関係を始めたいなんて微塵も思わない。そもそも私はメールが嫌いなのである。即座に「うん」と答えた。

「そっか、じゃあね」

うっとおしい男だ。何年も前に数ヶ月付き合っただけの女になぜわざわざ干渉してくるのか。これでやっと帰れる、よかった。体をこわばらせながらもさっさと駅に向かった。しばらくすると後ろから足音がする。背中に神経が集中する。振り返る。かずやが走ってきた。「あかん、殺される」本気で思った。多少。

「これ・・・気が向いたら連絡ちょうだい」

その手に握るのは連絡先のメモ。

「いらない」

必死さが露呈した。

「気が向いたらでいいから」

「向かない」


逃げるように帰った。駅についても気が気でなく、常に監視されているような不快さがあった。


「この土地を出なくては・・・」

なんとなく、しかしやっぱりな、という感じに思った。