★松野クララ
フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。1876年(明治9年)に来日し、ドイツで知り合った松野礀(まつの はざま、林学者、農商務省官吏)と結婚。日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第1号だった。翌年、娘の文(ふみ、Frida Fumi)を出産[3]。
以後、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組み、東京女子師範学校附属幼稚園の最初の主席保母として、ドイツの養成所で学んできたフレーベルの理論や保育内容の実際をほぼ舘に直接教え、後には東京女子師範学校の保母練習科の生徒たちにも教授した。[4]また当時珍しかったピアノを弾いて一緒に子どもたちと遊戯を楽しんだ保育者の第一号でもる。
1876年に設立された東京女子師範学校付属幼稚園にて、初代監事(園長)関信三の下で首席保母となり、豊田芙雄(ふゆ、女性)[6]・近藤濱を保母として、フレーベルの恩物の使い方や遊戯、実際的な保育の技法を通じて、フレーベルの教授法を初めて日本に導入するに当たり功績があった。また、1878年設置の同校保母練習科で保育法をも教授した。宮内省式部職の命により、1879年から雅楽部の小篠秀一、芝葛鎮、東儀季芳、奥好義に、1884年から辻則承に、ネイサン・リチャードソンの教則本「ピアノフォルテのためのニュー・メソッド」を用いてピアノを教えている[7]。のち1881年以後は、華族女学校でピアノを指導している。